記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】1月10日

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1月10日の太宰治

  1947年(昭和22年)1月10日。
 太宰治 37歳。

 午後七時十分、織田作之助が、東京病院宿痾(しゅくあ)の肺結核のため激しく喀血して逝去した。

『織田君の死』

 今日は、作家・織田作之助(1913-1947)の命日です。織田の代表作夫婦善哉(めおとぜんざい)にちなんで善哉忌(ぜんざいき)と呼ばれています。
 織田は、終戦後に太宰や坂口安吾石川淳らと共に無頼派(ぶらいは)新戯作派(しんげさくは)と呼ばれ、「織田作(おださく)」の愛称で親しまれました。

 織田と太宰がはじめて会ったのは、1946年(昭和21年)11月22日。織田、太宰、坂口安吾平野謙(司会)との座談会現代小説を語るが銀座の実業之日本社で行われた時でした。座談会終了後、企画担当の倉崎嘉一を加えた5人でバー「ルパン」へ。ルパンには、青山光二、高木常雄、入江元彦も来ており、太宰は先に帰ったそうです。
 3日後の11月25日には、織田、太宰、安吾鼎談(ていだん)歓楽極まりて哀情多しが『改造』主催で行われました。この日も終了後はバー「ルパン」になだれ込みます。この時、林忠彦が3人の有名な写真を撮影しました。その後、織田の宿泊する佐々木旅館へ移って飲み続けます。太宰はたて続けにタバコを吸い、織田はしきりにヒロポンを注射していたそうです。

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 翌1947年(昭和22年)1月10日、織田は、東京病院宿痾(しゅくあ)の肺結核のため激しく喀血して逝去しました。
 織田の死に接した太宰は、翌日1月11日か12日、『織田君の死』を脱稿します。『織田君の死』は、同年1月13日発行の「東京新聞」第二面の「文化」欄に掲載されました。

『織田君の死』

 

 織田君は死ぬ気でいたのである。私は織田君の短篇小説を二つ通読した事があるきりで、また、()ったのも、二度、それもつい一箇月ほど前に、はじめて逢ったばかりで、かくべつ深い附き合いがあったわけではない。
 しかし、織田君の(かな)しさを、私はたいていの人よりも、はるかに深く感知していたつもりであった。
 はじめて彼と銀座で逢い、「なんてまあ哀しい男だろう」と思い、私も、つらくてかなわなかった。彼の行く手には、死の壁以外に何も無いのが、ありありと見える心地がしたからだ。
 こいつは、死ぬ気だ。しかし、おれには、どう仕様もない。先輩らしい忠告なんて、いやらしい偽善だ。ただ、見ているより外は無い。
 死ぬ気でものを書きとばしている男。それは、いまのこの時代に、もっともっとたくさんあって当然のように私には感ぜられるのだが、しかし、案外、見当らない。いよいよ、くだらない世の中である。
 世のおとなたちは、織田君の死に就いて、自重が足りなかったとか何とか、したり顔の批判を与えるかも知れないが、そんな恥知らずの事はもう言うな!
 きのう読んだ辰野(たつの)氏のセナンクウルの紹介文の中に、次のようなセナンクウルの言葉が(しる)されてあった。
「生を()てて逃げ去るのは罪悪だと人は言う。しかし、僕に死を禁ずるその同じ詭弁家(きべんか)が時には僕を死の前にさらしたり、死に(おもむ)かせたりするのだ。彼等の考え出すいろいろな革新は僕の周囲に死の機会を増し、彼等の説くところは僕を死に導き、または彼等の定める法律は僕に死を与えるのだ。」
 織田君を殺したのは、お前じゃないか。
 彼のこのたびの急逝(きゅうせい)は、彼の哀しい最後の抗議の詩であった。
 織田君! 君は、よくやった。 

 同年1月12日夜、太宰は芝の愛宕山下の浄土宗天徳寺での通夜に列席し、織田の寝棺の前で十数名と一緒に雑魚寝。13日の12時に桐ヶ谷火葬場での荼毘(だび)にも参列して、 林芙美子青山光二十返肇品川力らと共に骨を拾っています。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・公益財団法人神奈川文学振興会 編『生誕105年 太宰治展 ー語りかける言葉ー』(県立神奈川近代文学館、2014年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「坂口安吾デジタルミュージアム
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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