4月12日の太宰治。
1947年(昭和22年)4月12日。
太宰治 37歳。
三鷹町下連雀二百三十五番地の田辺精肉店(田辺万歳、かつ夫妻経営)敷地内にあった同店所有の西側の離れのアパートの奥の四畳半の一室に、仕事部屋を移した。
田辺精肉店の裏のアパート
1947年(昭和22年)4月6日から、太宰は三鷹での仕事場を田辺精肉店の裏のアパートに移します。このアパートは、同年5月20日まで借りていました。
太宰は、このアパートの四畳半で、『斜陽』第三章から執筆をはじめます。
■田辺肉店離れ跡 東京都三鷹市下連雀3-27-8
鶴の姉は、三鷹の小さい肉屋に嫁いでいる。あそこの家の二階が二間。
鶴はその日、森ちゃんを吉祥寺駅まで送って、森ちゃんには高円寺行の切符を、自分は三鷹行の切符を買い、プラットフオムの混雑にまぎれて、そっと森ちゃんの手を握ってから、別れた。部屋を見つける、という意味で手を握ったのである。
「や、いらっしゃい。」
店では小僧がひとり、肉切庖丁 をといでいる。
「兄さんは?」
「おでかけです。」
「どこへ?」
「寄り合い。」
「また、飲みだな?」
義兄は大酒飲みである。家で神妙に働いている事は珍しい。
このアパートは、太宰が午後3時頃から飲みはじめることが多かった屋台のうなぎ屋「若松屋」の仲介で借りました。このアパートでの執筆中、太宰は外部との連絡を、若松屋を通して行っていたと言われ、初代店主・小川隆司は自転車で、太宰を訪ねてくる来客との伝書鳩を努めたそうです。
太宰はアパートへ、亡くなった時に着ていた長兄・津島文治のお下がりの灰色の背広を着て、ノーネクタイ、下駄履き、黒い
午後3時頃になると、仕事部屋を引き揚げ、三鷹駅から南へ商店街を50メートルばかり歩いたところにある橋のたもとで、紫色の
■太宰と若松屋の初代主人・小川隆司。左隅で暖簾から顔を覗かせているのは女将。1947年(昭和22年)4月撮影。
太宰の妻・津島美知子は、『回想の太宰治』の中で、
午後三時前後で仕事はやめて、私の知る限り、夜執筆したことはない。〆切に追われての徹夜など、絶えてない。夜の方が静かで落ち着いて書けるのに昼間仕事するのは、私には健康のためだと言い、一日五枚が自分の限度なのだと言った(死の前年秋の某誌に載ったインタヴューでは、夜中はだれかがうしろにいてみつめるようでこわいから仕事しないと答えている)。
と書いていますが、アパートの家主は、
空になったアパートのその部屋だけ、夜も遅くまで
煌々 と電気がついていた。
と話していたそうです。
「空になった」というのは、来客が全て帰った後、ということでしょうか。
普段は、朝9時から午後3時までしか執筆をしなかったという太宰ですが、戦後で電力事情が悪い時代に、「夜も遅くまで」執筆していたことから、太宰の『斜陽』にかける情熱の深さが感じられます。
【了】
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【参考文献】
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・公益財団法人三鷹市スポーツと文化財団 編集・発行『平成三十年度特別展 太宰治 三鷹とともに ―太宰治没後70年―』(2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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