4月15日の太宰治。
1931年(昭和6年)4月15日。
太宰治 21歳。
大学入学当初から、五、六人集っては俳諧の運座を開催したりしていたが、この年から翌昭和七年にかけては「朱麟」または「朱鱗」と号して、俳諧に凝っていた。
「俳人」太宰治
1931年(昭和6年)4月頃。
東京帝国大学2年生の太宰は、家にいる時、だいたい小説を書いていて、書き上げると、青森県弘前市出身の友人・
ちなみに、藤野は、工藤永蔵と弘前高等学校の同期で、日本共産党の支持者でした。
太宰は、藤野に2階の1室を提供し、下宿させていましたが、特別高等警察に目をつけられたため、工藤の指示で、弘前高等学校時代から親しかった
工藤と太宰については、2月8日の記事で紹介しました。
太宰は、小説を何篇か書き上げると、機を見て井伏鱒二宅を訪問。小説を見てもらったそうです。
また、太宰は、東京帝国大学入学当初から、5、6人集まって運座(俳諧で、多数の人が集まり、一定の題によって句を作り、互選する会のこと)を開催したりしていましたが、この年から翌年にかけて、「朱麟」または「朱鱗」と号して、俳諧に凝っていました。
小舘保(俳号:朱蕾)、平岡敏男(俳号:十指翁)、坂部武郎(
■句帖「亀の子」
太宰の「俳人」としての顔、ご存知ない方も多いのではないでしょうか?
実は、太宰と俳句には深い関わりがあり、作品中や書簡中に多くの句を引用しています。引用する句も、松尾芭蕉を筆頭に、
また、太宰は自身で句の創作も行っています。以下、太宰の句帖「亀の子」や書簡、作品中に見られる太宰の創作句を紹介します。
まずは、句帖「亀の子」に書かれた創作句です。
幇間の道化
窶 れやびづつぱな爪を切っていながらも苦ぬるむ水
追憶のぜひなきわれ春の鳥
ひとりゐて蛍こいこいすなつぱら
病む妻やとゞこほる雲鬼すゝき
旅人よゆくて野ざらし知らやいさ
こがらしや眉寒き身の俳三昧
今朝は初雪あゝ誰もゐないのだ
亀の子われに問へ春近きや
老ひそめし身の紅かねや今朝の寒
続いて、書簡に書かれた創作句です。
太宰の書簡には、1933年(昭和8年)から1939年(昭和14年)にかけて、いくつかの句が散見されます。
羽子のおと、もの思はぬよむかしはも、君、
ソロモンの夢が破れて一匹の蟻
青桐の幹ごとうごく
宇地震哉 ソロモンの夢破れたりトタン塀
みどり児のひいひい泣くや冷月と我
バカノ果。コヨヒ、七夕祭
春服の色教へてよ揚雲雀
最後に、太宰の作品中に見られる創作句です。
外はみぞれ、何を笑ふやレニン像
(「葉」より)病む妻や、とどこほる雲 鬼すすき
(「葉」より)歯こぼれし口の
寂 さや三日月
(「虚構の春」より)首くくる縄切れもなし年の暮
(「虚構の春」より)ここを過ぎて、一つ二銭の
栄螺 かな
(「ダス・ゲマイネ」より)ふくろふの
啼 く夜かたはの子うまれけり
(「二十世紀旗手」より)みち問えば、女、
唖 なり、枯野原
(「二十世紀旗手」より)柿一本の、生れ在所や、さだ九郎
(「HUMAN LOST」より)すすきのかげの、されかうべ
(「懶惰の歌留多」より)乱れ咲く乙女心の野菊かな
(「パンドラの匣」より)コスモスの影をどるなり乾むしろ
(「パンドラの匣」より)白足袋や主婦の一日始まりぬ
(「冬の花火」より)
句帖「亀の子」に書かれた「病む妻やとゞこほる雲鬼すゝき」の句は、「葉」に「病む妻や、とどこほる雲 鬼すすき」として使用されました。
■句帖「亀の子」 一番右に書かれているのが「病む妻やとゞこほる雲鬼すゝき」の句。
夏目漱石や芥川龍之介をはじめ、俳句そのものをたくさん創った作家は少なくないですが、俳句をその小説の中で、太宰ほどうまく駆使し、文体を彩った作家はいないかもしれません。
【了】
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【参考文献】
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・『太宰治生誕110年記念展 ―太宰治と弘前―』(弘前市立郷土文学館、2019年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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