4月16日の太宰治。
1948年(昭和23年)4月16日。
太宰治 38歳。
山崎富栄が、太田静子宛の手紙を「太宰代理」として代筆。
富栄、太田静子への手紙を代筆
1947年(昭和22年)11月12日、太田静子は、娘・治子さんを出産します。
同月15日に、静子の弟・太田通が三鷹の太宰を訪ね、太宰は「証。太田治子。この子は可愛い子で、父をいつでも誇って、育つことを念じている」と書いたお墨付きを通に手渡しました。
さらに、同月17日、静子の弟・太田武が三鷹の野川家(2階に山崎富栄が部屋を借りていた)の太宰を訪ね、主に経済的な問題で太宰と懇談。太宰は治子の養育費として、毎月1万円(現在の貨幣価値で、約10万~14万円)を送ることを約束します。
■太田静子と太田治子 1948年(昭和23年)5月に撮影。
太宰は、毎月1万円送金の約束を履行しますが、実際に送金の手続きを取っていたのは、「太宰治代理」の山崎富栄でした。
今日は、1948年(昭和23年)4月16日付で、「太宰治代理」として、富栄が静子宛に書いた手紙を、富栄の日記から引用して紹介します。
四月十六日
漸 く暖かな季節になりました。電報拝受いたしましたので、お申し越のもの、さっそく電替にて御送り致しました。太宰さんは展望の御仕事の第一回のものが出来上がりましたので、三月六日にカンヅメから開放されました。その後は御経過もよろしくないのですが限りある身のちから試さんというような御様子で病院いきをなさりつつ、引続き二回目のものを御執筆なさっていらっしゃいます。それから、こういうことがございましたので御相談いたしたいと存じます。配達のひとが、昨夜「下連雀の百何番だったかなあ、もう一人同姓同名のひとがありますねえ、やっぱり、ダザイ、オサムというんですよ」と申しました。こちらでも今まで気付かなかったことなので、はらはらしながら受けとりましたが三鷹も小さな町なので、このままの宛名がつづいて参りますと、雑誌社などからの電報が、下連雀一一三の方へ届きます折、御家族のどなたかに「――」のような言葉をくり返され、洩れないとも限りません。それで太宰さんもいろいろ御心配なさいまして。そうなってからの御相談ではいけませんし、誠に申し上げ難いことなのでございますが、此の次からの御便りの宛名はいずれも左記のようにお書き下さいまして御送り頂けましたらと存じますが、いかがでございましょう。
よろしく御配慮のほどお願いいたします。
かしこ
十 六 日 太宰代理
太 田 様
(下連雀二一二鶴巻様方)
矢 崎 ハ ル ヨ
いろいろなこと、させていただいたことども。結局は奥様にとっても「伊豆」にとっても一番大切なことだったのですし、一番救われるのは修治さんです。それから、私。修治さんとはちょうどつらいことどもは同じ位かもしれない。文学のことはぬきですけど。お互いが、お互いをふびんがって、いとしんでいる。
「僕のために苦労することをうれしいと思ってくれよ」
「私、どうしたらいいか分からなくなった」と言ったら。
「それは、カラムというものだ」
などとおっしゃって――
日記中に「三月六日にカンヅメから開放されました。」とあり、「展望の御仕事の第一回のものが出来上がりました」とあるのは、『人間失格』のこと。
3月8日の記事でも紹介しましたが、太宰と富栄が『人間失格』執筆のために熱海・起雲閣別館に「カンヅメ」になっていたのは、3月7日から3月31日までのこと。これは、富栄の記述違いだと思われます。
「小さな町」三鷹で、「配達のひと」も違和感を感じているようで、誤配を避けるために、太宰と富栄がとった予防策。
「太宰治代理」として、毎月静子に手紙を送り続ける富栄は、どんな気持ちだったのでしょうか。
■山崎富栄
【了】
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【参考文献】
・山崎富栄 著・長篠康一郎 編纂『愛は死と共に 太宰治との愛の遺稿集』(虎見書房、1968年)
・長篠康一郎 編集兼発行人『探求太宰治 太宰治の人と芸術 第4号』(太宰文学研究会、1976年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・有村有弘・渡辺芳紀 編『太宰治大辞典』(勉誠出版、2005年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「日本円貨幣価値計算機」(https://yaruzou.net/hprice/hprice-calc.html)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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