記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を、自由に旅する。太宰治が、ソウルフレンド。

【日めくり太宰治】4月24日

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4月24日の太宰治

  1943年(昭和18年)4月24日。
 太宰治 33歳。

 阿部合成(あべごうせい)の画会に出席。

太宰と阿部「思い出果てなし」

 阿部合成(あべごうせい)(1910~1972)は、太宰の1つ年下の画家です。太宰は、金木尋常小学校を卒業後、学力補充のために1年間、明治高等小学校に通ったため、青森中学校で太宰と阿部は同級生になりました。

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■阿部合成と妻・阿部千代(のちの、阿部なを)

 合成は、作文を得意としていましたが、太宰の文才に衝撃を受けて文学を断念。美術の道に進むことを決心します。
 太宰と阿部については、3月6日の記事でも紹介しましたが、今日は、阿部が太宰について書いた『思い出果てなし』を引用して紹介します。

 あれからもう二十五年にもなる――
 私が中学へ入学して間もなく赴任して来た高師出の颯爽たるスポオツマンが、新入生共を作文に熱中させたが、ある時彼は最大級の讃辞を前置にして、推奨作品を全生徒に朗読してまわった。一つは阿部合成の短篇詩である。面目をほどこして大得意であった私は、もう一つの作品をよみきかされて全く踵を噛りたい程赤面せねばならなくなった。それは「花子サン」というユーモア小説でチンピラ中学生共を涙の出る程笑い転がらせた。原稿用紙三十幾数枚におよび、尚未完という堂々たる長篇である。作者はT組津島修治、以来、私は、この驚嘆すべき作品と並べて私の詩を推奨した教師の常識を疑い、当分作文は出さない決心をした程だった。津島修治は猫背で色白の大人しい少年だった。金木の大金持の子という事だった。十五才の彼は、既にシェークスピアを誦んじ、モオッパスサンについて語っては彼の讃美者達を途方にくれさせていた。
 何か妖しい、ませた野心めかしいものをポケットにつゝこんでいる様な容子で親しめなかったが、ある時私は彼への尊敬と友情のしるしに彼を殴った教師へのストライキを企てた。私は興奮して教室のカーテンを引き破き生徒を階段教室に集め、練兵場の隅にひっぱり出し、枯草を燃やして演説をはじめた。彼はおろおろして「やめてくれ!」と私に嘆願しにやって来た。へちまの様な眼つきだけれども彼の哀訴は消火をしてしまった。ストライキは未遂に終った。私はやり場のない屈辱を蒙ったがお蔭で退校処分にもならずに済んだ。四年生の秋であった。
 それから十年以上
 あちこちの雑誌に太宰治の名が出はじめ、単行本も出たりするようになっていたが、私は相不変の画学生で解剖教室へ通ったり、学校ではサボッテしまったフランス語のやり直しにアテネ・フランセの夜学へ通ったりしていた。日華事変のはじまった年、故郷の新聞社が主催の在京芸術家座談会というものへの招待を受けた。何かおぞましい気おくれもあったが、久し振りで故郷の人たちにも会ってみたかった。
 烈しい真夏の雨が降りこめる夕ぐれの日比谷公園をいたく老けた今純三先生の介添という恰好でついて行ったのだが、会場へ入った途端に私は後悔しはじめた。
 途方もない場違いだ!が、私はすぐ太宰を見つけた。あおい藍みじん姿の彼はこちらをむいて苦笑した。「おい、お前さんもか、とんでもない!」という顔つきだった。
 長ったらしい宣伝つきの自己紹介がはじまった。太宰は「金木の津島です。」とたったひと言云い、上座の当時売出しの画伯の「聞えないぞオ」という声援に、「ナニオ!!コノヤロ!!」と仰天する程の大声で浴せ返し、こちらを振向いた。それを合図に吾々は一目散に会場を脱走した。白々と沫きをあげてふりしきる豪雨の中を彼は尻端折り、私はズボンの裾をまくり上げてズブ濡れ乍ら強かに呑みまわった。つるつるの若禿げにベレエ帽をのっけた童顔の今宮氏も一緒だった。――
 家も近く、彼の家で山岸外史――彼が東京で知った唯一人の恐怖すべき芸術家――と知り合うようになってからは連日のように三鷹西荻窪のくらい木立の間を夜ふけて往復した。
 酔えば彼は何時も葛西善蔵を讃えて哭いた。山岸と私は絶えず彼を悪口雑言し脅迫した。
 ある年のみぞれの降る十一月だった。太宰の「風の便り」の装幀の打ち合わせにやって来た利根書房の番頭さんと連れ立って彼を誘い出して呑んでいた。が、急に彼はいきり出して、「俺だって、芸術家だ、侮辱するな、いつか入歯を外して、殴ってやろうと思っていたんだ」と立ち上がった。私は狼狽した。あの見栄坊の彼である。入歯が出来るまでの一ヶ月余、殆んど外出も慎み、医者通いが精一杯で、それは必ずマスクをかけて、苦心惨憺、漸く落成したばかりの入歯だ「あゝ何という礼儀!」
「それ丈はカンベンしろ」!はめたまゝで殴れ!!」
 と喚いたが間に合わなかった。彼は血相変えてハツシとばかり入歯を投げつけてしまった。諦めて彼の前につき出した私の頬めがけて力一杯飛んで来た彼の拳は、まるで少女のように優しく果敢なかった。それから私達はあわてゝ、雪の上を這いまわり、ドブの中へも腕をつゝこんで入歯を探しまわったが、徒労だった。夜も昏かったし、降りたての雪もそこら一面どろだらけになってみれば最早絶望だったのである。
 翌朝、鶏をブラ下げて彼を慰めに出かけた私は驚いた。昨夜の入歯は再びチャント彼の口の中に収っている!!
 五年、満州、シベリヤへの悪夢の旅を終えて復員の途、東京へ立ち寄った私は先輩の外科医から太宰がもとのところに住んでいるときいて堪らず、そのまゝ深夜の道をリュックを背負ったまゝ、三鷹まで駈けた。何もかもそっくりもとのまゝだったが!!
 「呑めるのかい」と聞けば「原稿料が一枚百円銚子一本はむかし十銭、ナンダしてみりゃ一枚十銭の大安売りさ」と笑い「どうせ俺は小味な男だ。」と血を喀き乍ら書きつゞけていた彼にはもう既に死のいろがふかく瞳にも顔にもたゞよっていた。
 せめて、彼に近代フランスを超えるチャムピオンであれと希う私たちの生きてくれ!!と手に汗しても、最早叶わない重々しい影が、息ぐるしく感ぜられた。

 太宰は彼らしいあわて方で、髪ふり乱し息せき切って、根を限りにかけ去ったのである。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治研究 臨時増刊』(審美社、1963年)
・黒田猛『幻の画家阿部合成と太宰治』(幻想社、1979年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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