記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】4月27日

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4月27日の太宰治

  1932年(昭和7年)4月27日。

 太宰治 22歳。

 四月 小舘善四郎(こだてぜんしろう)(大正三年十一月二十九日生、十九歳)が帝国美術学校西洋画科に入学、小舘保と葛西信造とが住んでいた四谷区坂町の借家に同居するようになって、以後、「土曜日ごと」に訪れるようになった。

太宰と小舘善四郎(こだてぜんしろう)

 小舘善四郎(こだてぜんしろう)は、太宰の四姉・きやうの夫・小舘貞一の三弟。「のびやかな感じの青年」で、太宰のことを「お()ちゃ」、太宰の最初の妻・小山初代(おやまはつよ)のことを「はこちゃ」と呼び、太宰夫婦は、善四郎を「しろしゃ」と呼んで、兄弟同士が隔てなく付き合っているような間柄だったといいます。

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小舘善四郎(こだてぜんしろう) 1935年(昭和10年)秋頃。

 この時の様子を、善四郎の『片隅の追憶』から引用して紹介します。

 大鳥圭介。人名事典をみると、圭介は天保四年生れで明治四十四年に七十八才で没している。とすれば、あの家屋敷は明治四十四年以前に造られたものであろう。私は大鳥圭介特命全権公使や枢密顧問官であったことは知らなかったが、函館五稜郭籠城など明治維新に名前の出る人物、という程度には記憶していたので、太宰から「芝に広い家が見つかって、アトリエに恰好の部屋もあるらしいし、君も引越して来ないか。」と誘われた時、そこが大鳥圭介の屋敷ときいて、面白いことになったものと思った。

 

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大鳥圭介(1833~1911 江戸時代後期の幕臣(歩兵奉行、幕府伝習隊長、陸軍奉行)、医師、蘭学者軍事学者、工学者、思想家、発明家。函館五稜郭では、新選組土方歳三とも共闘した。

 

 その年、昭和七年春。私は郷里の中学を終えて間もなく、入門を許された牧野虎雄先生のすすめで、帝美(今は武蔵野美大)に入学した。その頃、私のすぐ上の兄が、四谷坂町の借家に、太宰の青森中学からの親しい仲間で、上野の美校漆工科の学生であった葛西信造さんと二人で、半自炊の生活をしていたので、私はそこに同居した。
道化の華」には、葛西さんと私の兄の二人らしい影が、わりと鮮明に描かれている。
 太宰が淀橋柏木に住んだ時分で、私は土曜日ごとにそこを訪ねていた。
 葛西さんは美校在学中に病気で亡くなったが、私が同居した頃も、毎晩ひどい寝汗が出て、日増に体の調子がわるく、友人の中村貞次郎さんたちも心配して、新学期が始まって間もなく、青森の生家で休養することになった。
 そんな事情で坂町の家は、私が入って二ヶ月足らずで解散し、兄と私は、私の幼い頃からの友人で成城学園に行っていた高谷達海君と三人で、坂町のすぐ近くの北伊賀町の借家に移った。

  太宰の淀橋柏木の家は、「貸家向きに新築の平屋で、六畳二間続きの南面の廊下の前が、庭木も無い丈の短い一面枯芒(かれすすき)の空地」だったといいます。
 4月15日の記事で、太宰が詠んだ「病む妻やとゞこほる雲鬼すゝき」という句は、この家での体験を踏まえていると思われます。太宰は、善四郎に「この(すすき)は鬼ススキという種類だ」と教えたそうです。

 ところが七月に入ると、北伊賀町の家も、少々こみいった兄の都合で解消しなければならなくなって、私はその相談に柏木へ出向いたのだが、その数日前から太宰の家は空家になっていた。
 太宰が特高警察の追求を逃れて、落合一雄の変名で八丁堀の材木屋の二階に隠れた時期であった。
 都内の学校が夏休みに入りかけた頃、兄の帰郷と入れ違いに、私の母が上京してきた。たしか吉沢祐氏にお願いして、八丁堀の太宰へ連絡がついたと記憶する。柏木逃亡、特高へ自首直前。そんな時期に、太宰夫婦は北伊賀町まで来て、私たちの相談にのってくれた。帰りしなの玄関先で、母が「警察のことは一日も早くさっぱりさせるに越したことはない。」という風のことを言って、二人を元気づけていたことが思い出される。

 

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■吉沢祐 初代の叔父。

 

 一日二日後に、太宰は青森署に出頭した。
 それから数日後の炎天の昼下り、母と私は八丁堀の材木屋の二階を訪ねた。通りから、立てかけた長尺の角材などが見える路地を曲って、薄暗い材木置場の梯子段をのぼり、ひどく天井の低い部屋の畳に坐った時、母は小さくため息をついて眼をしばたたいた。
 太宰夫婦と私の母は、妙に気が合ったように思う。毎年一、二回は上京していたので、郷里の人としては太宰と会う機会も多かったし、血縁者の制約もない立場であったから、私の家へ嫁いでいた太宰の姉の、それとない伝言を伝えたり、表向には遠慮の多い届けものをしたりした。太宰の人をよろこばせようとする気心が、母にはよく通じて、息子たちが世話になるということもあったが、太宰夫婦については、肉身のことのように力を入れたものであった。
 三十年も前の記憶は、遠く薄れた影と、今も目前に見えるようなことが入混って、視点を定め難い。八丁堀の二階で、どんな話をしたかは丸きり思いだせないのだが、薄暗い天井の低い部屋で、四人で飲んだイチゴ氷の紅い色は、今でも記憶に残っている。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治研究 6』(審美社、1964年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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