記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を、自由に旅する。太宰治が、ソウルフレンド。

【日めくり太宰治】5月2日

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5月2日の太宰治

  1923年(大正12年)5月2日。
 太宰治 13歳。

 「花子の一生」(または「花子サン」)というユーモア小説を書いたところ、高等師範出身の大谷哲教諭が感心し、朗読して生徒たちに聴かせた。

青森中学時代の太宰

 今日は、青森中学校時代の太宰について紹介します。

 太宰は、1923年(大正12年)4月1日に青森県立青森中学校に入学しました。青森中学校は、弘前、八戸に次いで、県内で3番目の1901年(明治34年)4月11日に開校され、開校当時は、青森県立第三中学校と呼ばれていましたが、1908年(明治42年)5月10日に青森中学校と改称されました。
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■青森中学校の校舎

 第一学年は、甲乙丙丁の4クラスに分かれていて、太宰は一年丁組でした。
 同じクラスには、東津軽郡蟹田中師(ちゅうし)にある米屋の次男・中村貞次郎(なかむらさだじろう)がいました。中村の下宿は、太宰の下宿先「山太呉服店」と100メートルほどの近さだったため、そこから2人の交友がはじまりました。中村は、『津軽』に登場する「N君」のモデルになった人物です。中村が語る太宰の中学時代については、4月23日の記事をご覧ください。

 思い出に、「落第の懸念に苦しまされていた」という記述が見られますが、当時は1クラスで4~5人ほどの原級措置は普通だったそうです。太宰は時々、中村に「家の人達のために勉強しなければならない」と語っていました。

 中学時代の太宰が書き、大谷哲教諭が感心したという、ユーモア小説「花子の一生」。原稿用紙約30枚の長篇が「チンピラ同級生たちの息の根をとめるほど笑い転がさせ」たと、同級生・阿部合成も回想しており、4月24日の記事で紹介しました。

 「花子の一生」は、次のような話でした。

 津軽の貧乏な百姓の家に赤ん坊が生まれた。田畑の仕事で多忙な父親は、役場に行くという知人に出生届を依頼する。役場で知人は「確か「ビッキが生まれた」というていたから女の児だろう」と答える。男の児であったのに、役場では「花子」と命名し、戸籍に記載する。当時の農村では、日々の生活の中で実名は呼ばれず、アニ、アネ、オジと呼ばれていたため、「花子」は本名を知らないまま成長した。
 小学校に入学した時、学校側は、女児が入学してくると思い込んで準備していたのに、「花子」が男の児であったのに困惑。先生と父親が協議して役場へ行き、変名を願い出て、「太郎」と改名して、「花子の一生」は終わった。

 以上のような悲喜劇だったそうです。
 同級生の阿部は、作文が得意で文学の道を志していましたが、「“作者は”と、みんなの騒ぎが静まるのを待って、教師は荘重な口ぶりで告げた。”一年T組の津島修治である”」「一瞬、教室中がストンと谷間に落ちこんだように、シュン、となったのを憶えている。つい今し方、あれ程オレ達を感動させた、原稿紙廿数枚にも及ぶ小説の作者が、われわれチンピラ仲間のひとりだという事に、どうにも納得のゆかない、途方にくれる想いだった。」といい、文学を断念。美術の道に進むことを決心したそうです。

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■中学時代 左から、太宰、太宰の弟・津島修治、中村貞次郎

 1年生の時の一時期、太宰は、ランニングや柔道の練習に励みます。
 下宿先の呉服店裏にある定光寺の境内で、墓と墓の間の路地を利用し、100メートルくらいの直線路をコースにして、スパイクシューズまで購入し、ダッシュを繰り返して、熱心にランニングの練習をしました。
 一方では、、学校の帰りに、クラスの友達と連れ立って、学校のすぐ裏手にある合浦(がっぽ)海水浴場で、よく泳いでいました。「白い胸で筋肉がほとんどなく、胸の骨が透けて見えそうなくらいに痩せてひょろひょろ」していたため、仲間によく冷やかされていたそうです。活発な中学時代の太宰ですが、筋肉質というよりは、細身な身体つきだったようです。

 また、1年生の時から、「文藝春秋」を毎月とって読み、単行本はその都度、随時買って読んでいました。夏休みに、三兄・津島圭治が東京から持ち帰った同人雑誌の中から、井伏鱒二『幽閉』(「世紀」創刊号、1923年(大正12年)7月1日付発行)を発見して読み、「埋もれたる無名不遇の天才を発見した」と思い、「坐っておられないくらいに興奮した」といいます。これが、のちに太宰の師となる井伏鱒二との、はじめての出会いでした。ちなみに、『幽閉』は改稿され、1929年(昭和4年)に山椒魚として発表されました。

 1年生の2学期からは、級長に任命され、それ以降、在学中は級長を務め続けました。
 当時、級長は、黄色い羅紗で作った「中」の字の級長章を左の腕につけ、平均点85点以上、操行甲の生徒は「優良生表彰規定」によって、銀色の「優」の字がついたメダルを胸につけていたそうですが、太宰はその両方をつけていました。
 しかし、優等生タイプという訳でもなく、得意の茶目っ気で、クラスの友達をよく笑わせ、クラスの人気者の1人だったそうです。授業中にも教師によく叱られ、体操の時間にも、地理の時間にも、教師に殴られたといいます。

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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