記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】5月10日

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5月10日の太宰治

  1939年(昭和14年)5月10日。
 太宰治 23歳。

 五月九日付発行の「国民新聞」に「当選の日(一)/まづしい作家のこと」を、五月十日付発行の同紙に「当選の日(二)/四人の人を尊敬する」を、五月十一日付発行の同紙に「当選の日(三)/無事之好日」をと、連載発表した。

『当選の日』

 エッセイ『当選の日』は、1939年(昭和14年)5月9日発行の「国民新聞」第17046号から同月11日発行の同紙第17048号までの第六面「学芸」欄にわたって発表されました。

『当選の日』

  (一)まずしい作家のこと

 こんど、国民新聞の短篇小説コンクールに当選したので、その日のことを、正直に書いて見ようと思う。私は、ことしのお正月に、甲府の人と平凡な見合い結婚をして、けれども私には一銭の貯金も無し、すぐに東京で家を持つわけに行かなかった。家の敷金として、百円くらい用意しなければならぬし、その他家財道具一式を買わなければならぬし、そのためには、どうしても、もう百円は必要であろうし、とにかく、結構当時の私には、着ている着物と、机と夜具、それだけしかなかったのであるから、ずいぶん心苦しいことが多かった。はじめ私たちは、どこか山奥の安い宿でも見つけて、そこにかくれて、私はとにかく仕事に努め、家を持てるだけのお金を得ようと、そんなことも相談していたのであったが、さいわい、甲府の実家のちかくに六円五十銭の、八畳、三畳、一畳の小さい家が見つかり、当分ここでもいいではないか、山の宿より安あがりかも知れんと、しちりんや、箒やバケツを買って、その家に収まった。敷金もここは要らないのである。

 甲府のまちのはずれで、坐っていても、部屋の窓から、富士がちゃんと見える。葡萄棚もあり、枝折戸もあり、何よりも値が安く、六円五十銭なので、それが嬉しかった。汽車の響きがかすかに聞えて来るくらいで、夜は、八時すぎると、しんとしている。
「いいかい。侘しさに、負けてはいけない。それが、第一の心掛けだと、僕は思う。」
 私は、多少口調を改めて、そんなことを家内に教えた。私自身、侘しさに負けそうで、心細かったからでもある。

 この家で、一ばんはじめに書いた小説は黄金風景という十枚たらずの短篇であった。その短篇が、こんどコンクールに当選していたのである。私は、当選などとは、ほんとうに、それこそ夢にも思ってなかった。私はこれまで、私の性格、体質などに就いて、ずいぶん誇張されて言い伝えられ、たしかに私にも不用意な点があって、明かにそれは私のいたらぬところであったけれど、あらぬ伝説が一部の人たちに信じ込まれていた様子で、たいへん評判がわるかった。当選などは、思いも寄らぬことで、家内にも、また家内の実家の人たちにも、「こんど国民新聞で短篇小説のコンクールがあって、私も書くのだが、まあ、おしまいから二、三番のところ、と思っていて下さい。いいえ、ほんとうに、そうなんです。」と何かの機会に、そう言って、笑ったことがあるけれども、そのとき、家内の母は、ひとり笑わず、正直に淋しそうな顔をして見せて、私はそれに気がつき、おそろしく、しょげてしまったことがある。

 

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■太宰、美知子と石原家 前列左から太宰、義母・石原くら、中列左から義妹・石原愛子、美知子、義姉・石原富美子、後列が義弟・石原明 1939年(昭和14年)正月撮影。


  (二)四人のひとを尊敬する

 四月廿日の朝、私は、こんど出版する予定の「愛と美について」という書き卸し短篇集の校正刷を、床の中で受け取った。その校正刷と一緒に、速達のハガキが来ていて、それには、上林(かんばやし)氏と太宰とが、コンクールに当選した、ということが書かれていて、はじめ、私は、ぼんやりしていた。何も、思わなかった。ただ、見ていた。だんだん事情が分明して来て、それから、
「おい、おい。」と台所の家内を呼んで、そのハガキを見せた。
「へんねえ。」家内も、一瞬、へんな顔をした。
「とにかく、駅へ行って、新聞を買って来よう。」そのハガキには、廿二日の新聞に詳細発表してあります、と書いてあったのである。

 駅まで、歩いて、十五分くらいかかる。朝の八時すこしまえで、学校に急ぐ中学生の列が、黒くぞろぞろつづいていた。歩きながら、だんだん嬉しくなって来た。当選という事実が、はっきり掴めて来ていたのである。ふと、中学に合格したときの気持が、思い出されて、あの時のうれしさも、こんなだった。一瞬で、周囲の景色が、からっと晴れたような、自分が急に身の丈一尺のびて、ちがう人種になったような、やはり、晴れがましい気持であった。家内の実家の母に、だい一ばんに、その新聞を見せたかった。駅で新聞買ったら、それを、実家の郵便受箱に知らぬふりして、投げ込んで置こうか、とさえ思った。母は、私のような一物もない貧書生に娘を与えて、さぞ内心、淋しいことであろう。大決意を以て与えたのに、ちがいない。私は、少しでも母の、よろこぶさまを見たかった。私には、実の生みの母もあるのだが、いろいろの事情から、いまは音信不通になっていて、親孝行したくても、なかなか、それの許されない立場に在るのであるから、せめて、この家内の母にだけでも子としての務めを、ほんのわずかでも、無力の私にできる小さい範囲内でも、何かしたいと念じているのだ。

 停車場の売店には、国民新聞が、一部残っていた。私は、五銭を投じてそれを買った。停車場の待合室のベンチに腰をおろして、その新聞をひらいて見た。私の写真が、上林氏の写真と並んで載っていた。私の顔は、少し修正されて、色が白く印刷されていた。けれども、やはり泣きべそをかいている様な顔であった。私には、四票はいっていた。四人。私はぎゅっと真面目になった。力づよく思われたのである。四人。四人のひとが私のいままでの悪評を押しのけて、敢然と投票した。美しいと思った。厳粛なものを感じた。襟を搔き合せたい気持であった。四人。すぐそのうちの二人の顔が浮んで来た。あとの二人は、私の知らぬ人かもしれない。私はこの四人を忘れては、ならない。私は素直に言います。私はこの四人を永久に尊敬する。

 

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■短篇小説コンクール優勝の記事 1939年(昭和14年)4月。


  (三)無事之好日

 その新聞をふところに入れて、家へかえった。さすがに、実家のポストには投入しかねた。家内にも、見せたかったのである。
 家内は、その新聞を読んで、
「でも、よかったわねえ。上林さんと御一緒で、あたし、とても安心だわ。あなたひとりだと、あなただって、お苦しいでしょう?」
 私は、家内をほめたく思った。私も、上林氏と一緒なので、それが、とにかく心強く、それに、――これは記名投票なのだから、公表しても差し支えないと思うが、私の真剣の一票は、上林氏の寒鮒(かんぶな)に、いれて在るのだから、私のよろこびも二重になっていたのである。私は、朝ごはんまえに、校正のほうを片附けてしまうつもりで、机にむかったら、ひょっこり母がたずねて来た。母は、甲府のランドラアとかいうハイキングの会で、山高の神代桜(じんだいざくら)へ行く人を募集しているそうだから、行ってみたらどうか、団体だといろいろ説明もしてもらえるだろうし、それに旅費が安い、一円くらいだから、この機会に行ったらどうか、毎日そんなに仕事ばかりしていないで、少しは気晴らしをしたらどうか、と私たちに一日の行楽をすすめに来てくれたのである。

「ああ、それから、この御本は、どうも、ありがとう。」と、せんだって私のところから借りて行ったシメノンの探偵小説を風呂敷から出して、
「うまいですね。このシメノンたらいうひと。」母は、ことし六十五歳であるが、デュマや、コナン・ドイルの伝奇探偵物語の類を好むのである。英語だって、少し読めるのである。「このひとのもの、他に何か無いかな。」
「ええ、それよりも、」私は、国民新聞を取り出して「ここに、ちょっといいことが出ています。」
 私も家内も笑っているので、母も自然に笑い出して、
「なんだろう。眼鏡が無ければ、よく読めないので。おや、おや、写真が出ていますね。」
「僕が、いつかお知らせしたでしょう? 国民でコンクールやって、僕は評判が悪いから、びりから二、三番だろうって。」
「そうですか?」母はきょとんとしていた。きれいに忘れてしまっているらしかった。

 だまって新聞を読んでいた。読んでしまってから、
黄金風景って、どんな小説なんですか? 私は、まだ読んでいないよ。」作品を読んでみないことには、母にも、当選の事実が信じられない様子であった。何かしら、不安らしかった。
「それがねえ、あんまり自信ないのです。とてもお見せできません。お情けで当選したのですよ。」そう言って、けれども、お情け、と言い切ってしまっては、まじめに投票して下さった四人の人に、すまないぞ、と思った。そこのところが、言い表すのに、むずかしかった。
 神代桜へは、わざわざ団体で行かなくても、私たちだけで、のんびり見物に行きましょう、賞金もらったら、そのお金で行きましょう、そうしましょう、と三人で話をきめた。

 母がかえって、私は校正にとりかかり、ひるごろまでに済まして、(おそ)い朝ごはんをたべ、それから、〆切のせまっている小説を少しずつ書きつづけ、そのうちに、しきりと侘しくなって来た。
「おい、たいしたことでも、ないんだね。」
「いいえ、私、これくらいの喜び、いちばん幸福に思うの。五百円、千円もらうより、上林さんとふたりで、五十円ずついただいて、ずいぶん美しいわ。」
 私は、日没のころまで、仕事をつづけた。実家の妹が、家内に(あわせ)を一枚、持って来て、
「これ、お母さんが、ねえさんにあげなさいって。」ごほうびのつもりかも知れない。
 夜は、また速達で校正刷が来て、十二時ちかくまで、それにかかっていた。

 ●『黄金風景』執筆時の様子については、「結婚後、最初の仕事」と題して、3月2日の記事で紹介しています。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随筆』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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