5月18日の太宰治。
1912年(明治45年)5月18日。
太宰治 2歳。
五月十七日、父
五月十八日付で各紙に報道されている。
津島源右衛門 、衆議院議員に当選
1912年(明治45年)5月17日。太宰の父・津島
翌5月18日、源右衛門の当選は、新聞各紙で報道されました。
五尺八寸(1メートル76センチ)の
■津島家の定紋「鶴丸」が描かれた
地元の人は、源右衛門を「金木の殿様」と呼んでいました。
源右衛門は、新邸宅(現在の「斜陽館」)と新代議士にふさわしい格式をつくるため、家族はもちろん、使用人に至るまで序列を設け、大地主の家長として威厳をしめすようになります。家族に対しても、権威主義で臨み、後継ぎである長兄・文治以外は、妻といえども特別扱いはしなかったといいます。
■斜陽館 2011年、著者撮影。
源右衛門は留守がちで、金木町に帰るのは、1ヶ月か2ヶ月に1回。それも、1週間ほど滞在すると、家人全員に見送られて馬車に乗り、東京、弘前、青森などに出掛けました。
県議時代には、青森浜町の塩谷旅館を、代議士になってからは、東京神田の龍名館を常宿にし、料亭通いをしていたそうです。
家にいても、村長、県会議員、小学校校長、警察署長など来客が多く、食事も茶の間に膳を運ばせ、妻の
■「金木の殿様」津島源右衛門
太宰も、青森中学時代に書いた読方帖「僕の幼児」に、「僕の一番家でこわいものは父様であった 故に父様の前では常に行儀よくして居た」と回想しています。
ちなみに、太宰が「僕の幼児」を書いた1923年(大正12年)の3月4日、東京市神田区の佐野病院に入院していた源右衛門は、53歳で亡くなります。この時の様子は、3月4日の記事で紹介しました。
この頃から、太宰の母・
■太宰の母・
金木の留守宅は、太宰の祖母で、「金木の淀君」と呼ばれていたイシと、太宰の叔母・キヱとによって守られていたといいます。幼少時の太宰は、キヱのことを「実母」だと信じていたそうです。
■太宰の叔母・キヱ 留守がちな太宰の父母に代わり、太宰を我が子のように可愛がった。太宰幼少期の夏の夜には、蚊帳の中で、キヱのお乳の出ない乳首を咥えながら、昔話を聞いていたそうです。
衆議院議員に当選した年の秋頃には、東京府下東大久保234番地に一家を構え、源右衛門と
太宰、2歳の時の出来事でした。
【了】
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【参考文献】
・『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』(新潮社、1983年)
・鎌田慧『津軽・斜陽の家 太宰治を生んだ「地主貴族」の光芒』(祥伝社、2000年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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