記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】1月14日

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1月14日の太宰治

  1946年(昭和21年)1月14日。
 太宰治 36歳。

  青森県金木町 津島文治方より
  仙台市東三番丁 河北新報社出版局 村上辰雄宛

 拝復、本日二千円たしかに頂戴ちょうだいつかまつりました。受領書、別に同封いたしました、このたびは本当にお手数をおかけ致し、旅は道づれ世は情、とつくづく感じいりました、からおせじではございません。本当にありがとうございました。
 新聞に依ると、流行の争議が御社にもはじまったようで、落ちつかない事でございましょう、みんなが幸福になるよう、円満の解決を祈っています、春になると、私もいちど東京へ行こうと思っていますが、その折、酒さかなを背負って仙台へ下車して、パンドラ出版記念会をひらきたいと思っています。
 どうか、この時代の苦しさを耐えて、切り抜けるよう、力を合わせてやっていきましょう。
 きょうは、心からのお礼まで。 敬具
  村 上 様                         太宰 治

 太宰、初の新聞連載

 太宰が青森県金木町(現・五所川原市)の生家に疎開中、宮城県仙台市村上辰雄むらかみたつおに宛てて書かれた手紙です。
 村上は、河北新報社(かほくしんぽうしゃ)の出版局長で、1944年(昭和19年)に太宰が『惜別』の取材旅行で仙台を訪れた際、世話になっています。
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 翌1945年(昭和20年)9月下旬、村上は夜行列車で金木町にいる太宰を訪ね、戦後最初の新聞小説を依頼します。村上の「書いてくれるね」の問いに、太宰は「うん、書きたいと思っているのがあるんだ。(略)何しろ終戦だろう。僕は、改めて希望というものを感じている。パンドラのはこから、最後に見つけ出した生きがいというか、もう長虫だの歯のある蛾だの毒蛇は見たくもないんだ」と即答したそうです。
 太宰にとって初めての新聞連載で、小山書店から刊行予定でしたが、出版許可がなかなか下りず、発行が延引しているうちに、発行間際の1944年(昭和19年)12月に印刷工場が戦禍に遭い、原稿が焼失してしまった『雲雀ひばりの声』(の校正刷り)の内容を戦後のことに書き改めて執筆しました。

 連載は1945年(昭和20年)10月22日から始まり、「河北新報」と同時に、青森県下の地方紙「東奥日報」にも掲載されました。
 新聞小説の原稿は、〆切ギリギリに新聞社に届くのが普通なのに、太宰は原稿を80枚ずつ、10日ごとに前後3回で送り届けたため、河北新報社の人々や挿画担当の画伯を驚かせたそうです。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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