記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】5月21日

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5月21日の太宰治

  1947年(昭和22年)5月21日。
 太宰治 37歳。

 三鷹上連雀八百四番地の藤田利三郎宅の一室を借りて仕事部屋とし、六月末までここで、「斜陽」を執筆。第八章まで、百八十枚を書き上げた。

太宰を占う、若い女性占い師

 太宰は、1947年(昭和22年)2月26日、静岡県三津浜にある安田屋旅館斜陽の稿を起こしてから、田辺精肉店の裏のアパート、藤田家と、仕事部屋を転々と変えながら、6月末に脱稿。4ヵ月をかけて、原稿用紙180枚にも及ぶ斜陽が完成しました。
 太宰の三鷹の仕事部屋」の変遷については、2月3日の記事で紹介しています。

 さて、この頃、太宰のことを占う、若い女性の観相家(かんそうか)が現れます。
 「観相」とは、人の顔・姿・骨格などを見て、その人の性格や運命を判断する占いのことです。
 まずは、1947年(昭和22年)5月21日付、一番弟子の堤重久に宛てて書かれたハガキを引用してみます。

  東京都下三鷹下連雀一一三より
  京都市左京区聖護院東町一五 堤重久宛

 御手紙拝見、お元気のようで何よりです。こないだ、弟さんが遊びに来ました。そうして一緒に飲みました。このごろ三鷹にキャバレー、映画館、マーケットなど出来、とてもハイカラで、にぎやかになり、私は仕事がすむと、酒と女で多忙の日々を送っています。堤君も、大いにねばって下さい、ねばりが第一です。君は、ねばり強いようだから、心強く思っています。「太宰さんの顔を見ると、ことしの六月に死ぬ相が出ている、私の観相は、いままでいちどもはずれた事がない、もしちがったら、私の首をあげる」と断言した若き女性あり。太宰六月死亡説はたして当るかどうか、このところ話題の中心。しかし、どうも死にそうもない。「展望」三月号のヴィヨンの妻、御一読たのみます。三番目の子供生れた。女子、(サト)命名す。 

 太宰自身、「太宰六月死亡説」と書いていますが、「若き女性」観相家は、「太宰さんの顔を見ると、ことしの六月に死ぬ相が出ている」と断言したそうです。
 この「太宰六月死亡説」については、新潮社の担当者・野平健一「『斜陽』のころの太宰さん」で回想しているので、こちらも引用してみます。

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■新潮社の担当者 左から、野原一夫、野平健一

斜陽』執筆の頃の太宰さんは、実によく飲んで(、、、)いました。けれども、それは、喧伝(けんでん)されているような、所謂(いわゆる)下等の酒ではありません。(もっと)も、この頃、三津浜で半月近く飲み続けた焼酎がたたって、非常に胃を悪くしたらしく、焼酎、その他それに類するものには、こりごりして遠ざけたようでしたが、そのことでは、私もたびたびウラミ言を、言われました。つまり、「新潮」が『斜陽』を書かせているので、三津浜などへ行って、バカな酒を飲む仕儀にもなったんだ、その挙句、自分には六月死亡説という予言をする女の人も現れた、もし、それが本当になったら、おれを殺したのは、おまえだ、という、お叱りの論理でした。六月死亡説の予言というのは、本当にあったので、その女の人と、首の賭け合いなどして、六月死亡という言葉を、面白がっている風をして、それをまた、酒の肴にして、屋台ののれんの奥で飲んでいるところには、私も居合わせたことがあります。
 この頃から、そろそろ太宰さんの身のまわりには、現実の、目に見える難儀が重なり始めたのではなかったかと、思われますのは、「死ぬ」という言葉を、自分の口から言うようになったのが、少なくとも、終戦後、東京へ出て来られてからは、これが最初だったからです。
 妙な言い方ですが、私には、そう思われます。

 太宰は、自身の「六月死亡説」を面白がっている節もあったようです。
 「私の観相は、いままでいちどもはずれた事がない、もしちがったら、私の首をあげる」と断言した「若き女性」観相家でしたが、太宰が亡くなったのは、翌1948年(昭和23年)6月。占いは外れてしまった、という訳です。

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 実は、「若き女性」観相家の正体は、メリイクリスマスに登場する「美貌で病身」で「恐怖困惑せずにすむ極めて(まれ)」な「唯一のひと」のモデル・秋田富子でした。
 富子は当時、娘の林聖子と2人で三鷹に住んでいました。太宰は鬱屈(うっくつ)した気持ちの時に富子のもとを訪れ、(くつろ)ぎのひとときを持ったといいます。

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■秋田富子(1909~1948) 富子は、太宰と同い年。太宰の『水仙』や『グッド・バイ』に登場する「かつぎ屋」のモデルにもなっています。若い頃から体を壊し、腎臓結核脊椎カリエス(かか)り、耳が不自由になりました。太宰の心中と同年の1948年(昭和23年)12月23日に亡くなっています。

  太宰は、6月2日、再び堤に宛てて、

 ついに五月になった。すると、からだの調子がよくなった。実は五月は(はなは)だ弱っていたのだ。もう大丈夫と思う。かの女預言者は美人だが、色気も金も無いひとだから、預言はずれたら、家来にしてやろうと思う。

というハガキを書いています。

 【了】

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【参考文献】
相馬正一『評伝  太宰治 第三部』(筑摩書房、1985年)
野平健一『矢来町半世紀』(新潮社、1992年)
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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