記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を、自由に旅する。太宰治が、ソウルフレンド。

【日めくり太宰治】5月23日

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5月23日の太宰治

  1948年(昭和23年)5月23日。
 太宰治 38歳。

 五月二十三日から二十七日付、山崎富栄の日記。

「修治さんに、憂鬱(ゆううつ)な嫉妬と不安」

 今日は、山崎富栄が 1948年(昭和38年)5月23日~5月27日までの5日間に書いた日記を引用して紹介します。
 太宰と富栄が、玉川上水で心中するのは、同年の6月13日未明。約3週間後に、この世を去ることになった2人は、この時、どんな様子だったのか。富栄の日記から見ていきます。

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■太宰と出逢った頃の山崎富栄

五月二十三日

 私はあなたの口もとに微笑を
 あなたのその眼に意地張りの光を
 あなたの胸から出てくる傲慢(ごうまん)に気づいている。
 だが、私のように
 あなたも不運
 その口もとには人知れぬ無念さがたたえられ
 じっと耐えた涙はひとみの輝きを消し
 動悸(どうき)する胸は痛傷を潜ませて

 

   ひ み つ
 口をつぐんで
 苦痛に耐えつつも
 秘密は私たちの
 悩める心の底に(いこ)
 たとえ心の中で暴れるとも
 揺ぎだすとも
 口はいつも閉めている

 

 ウィスキーを一日に一本くらいお飲みになるので心配なのだけれども、お体の方は大丈夫と仰言(おっしゃ)る。酒とブロバリンで、ここに内泊中(奥様が外泊といわれる由なので、私の方はさしずめ……)は熟睡をなさることのよろこび。仕事なんかより、お前との問題の方が大事だと気づかって下さるのです。
「僕がこんなにお前を可愛がっているの、分からないの」
「誰にも言えないことだけど……んなこと、だんだん考えるようになったんだ。そうなるかも知れないよ。いい? 離れないでね。弱気を起こしては駄目だよ」
 私の悲しみを知っているひとはただ一人。自分自らの手によって私の心を傷つけたあの人。ああ、楽しい恋の苦しみや、涙に濁った恋の楽しみやが、やがて、心に強い痛手を投げようとは、夢にも思ったことはありませんでした。
 ああ「信頼」の二字!

 夫が病んでいます
 わたしの夫が……
 生まれて初めての恋だよと
 昔……
 夫はわたしに言いました
 仲よくしてたそのときでも
 夫はあの人の幻を胸に描いていらしたとか
 わたしを一番愛しているから、信頼しているからと
 すべてを打ち明けてくれました
 ――手をにぎったこともなく
 ――唇をふれ合ったこともないと

 富栄は、1944年(昭和19年)12月9日に、三井物産社員の奥名修一と結婚しましたが、奥名は同月21日にマニラ支店へ異動となり、単身赴任します。マニラ到着後、アメリカ軍上陸のために現地招集され、マニラ東方の戦闘に参加したまま、行方不明となっていました。奥名は、1945年(昭和20年)1月17日にバギオ南方20キロの地点で戦死していましたが、富栄が奥名の戦死の公報を受け取ったのは、1947年(昭和22年)7月7日。太宰と出逢った後でした。

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■奥名修一 奥名は、当時28歳。富栄の3つ年上だった。

 富栄の日記に出てくる「わたしの夫」とは、奥名を指しているのか、太宰を指しているのか…。

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 ちなみに、富栄は、太宰と出逢った1年後、1948年(昭和23年)3月27日付の日記に、「私達夫婦が、はじめてお逢いした その一周年記念の日。」と記していました。

五月二十四日

 修治さんは気の弱いかたなのです。「優しい」ということの、本当の意味は今の私には分からなくなりました。文学的な苦悩、これは才能に恵まれていられるので、さほどではない様子で私には、女のひとのこと――これは結局、奥様へのやるかたない哀しみに帰るのでしょうが――の方が幾重にも深い苦悩になっていられるのです。お酒をのむことも、そうした恐怖の連続をうち切りたい心からなのです。私は、いろいろの心のいきさつを超越して「頼む」といわれたおことばを守って、「離れないで、僕を守って――」といわれたおことばを心に刻んで、命あるかぎり守りたい。笑われない人になるように、赤い糸でつながれた愛情が、あなたを信じさせてくれますもの。信じておりますとも、ご一緒に、どこへでもおとも致します。あなたも、私を、グッと引きつけて、お側へおいて下さいませ。

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五月二十五日

 昨日のおひるから、一物も咽喉に通らない。お食事がちっとも欲しくなくなった。
 何をするのも、いやになり、涙がいつもこみ上げてきそう。私の容貌など、三鷹へ来た頃と、修治さんにおつき合いしてからと全然変わったと、人に言われる。

 結婚は一つの字
 愛人は天が隠して知らせなかったことを全部女に教える。
 自由意志を欠いている女は、身を犠牲にするような資格をだんじて持ち得ない。
 極めて(みさお)正しい女は、自ら知らずして卑猥(ひわい)であるかもしれない。
 結婚は一切のものを持ち合わせる魔物と絶え間なく戦わなければならない。その魔物とは習慣のことである。

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五月二十六日

 こうしたことを書き(したた)めてみているのも、結局はあなたに愛されているのですよということを一層たしかめ、深め、刻みこみたい、悲しい、さびしい心からなのです。せずにはいられない心からなのです。

 伊豆の方御病気
 一万円電ガワにて送る
 子供もだんだん大きくなるのに……
 ゆきづまったら死ね!
 ああ、どうして人は、みな一人々々悲しいものを背負って生まれてきたのでしょう。桜桃、びわ、出盛る。
 (はえ)もうるさい。朝、長袖。(ひる)、半袖。夕、半袖。
「古田が言ったよ、伊豆へときたま行ってやれって――」
 ――馬鹿……太宰さんだけが可愛いんでしょう。どうせ私たち二人のことなど……。
 どうしても子供を産みたい。欲しい。
 きっと産んでみせる。貴方と私の子供を。
 水口伸二さん、土井先生、おみえになる。水口さんのあの鋭鋒は見事に入っている、と私は思う。帰路、堤に腰をおろしてお話する。水の流れと人の身は……。
「やるよやるよ、もう二度と喀血したが、死にゃしない」
「さっきは、大分つっ込まれたのね」と言ったら「何処が」と言って笑っていられた。
 あなたにいわれないようにしたいとあがくとき、女は恐ろしい卑しい、こわいことを考えるものか……とはっとする。

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■太田静子と娘・治子 1948年(昭和23年)春。

 太宰が斜陽を書く際に下敷きにした日記『斜陽日記』を提供した太田静子は、1947年(昭和22年)11月12日に、太田治子を出産していました。

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古田晁(ふるたあきら)

  太宰のセリフに出てくる「古田」とは、筑摩書房の創業者・社長の古田晁(ふるたあきら)のこと。
 古田は、作家が快適に執筆作業を進めるための環境を提供するのが得意で、太宰が人間失格を執筆した際に、熱海の起雲閣や大宮に滞在したのは、古田の手引きによるものでした。

●『人間失格』執筆のため、熱海・起雲閣別館に滞在。

●『人間失格』執筆のため、大宮に滞在。

五月二十七日

 驚きをもって、常にみられていて、その性格は模倣(もほう)さえされ、愛されて、嫉妬されるほどの内的な充実と美しさを持っている修治さんに、憂鬱(ゆううつ)な嫉妬と不安を私が感じないではいられないということが、なぜいけないのでしょう。
 グッド・バイ、十回分出来上がる。
 朝は、ああ一日中で一番不安なとき
 そしてひるまは、それよりもなお!

 思いのかなったような瞬時
 伊豆のかた
 わたしにも赤ちゃんくださいね。

 改造の西田さん、八木岡さんおみえになる。

  富栄は、前年1947年(昭和22年)3月27日に、はじめて太宰と出逢ってから1年半の間に、約20万円(現在の貨幣価値で、約200万~270万円)の貯金を、太宰の飲食費や薬品代、訪問客との接待費などに使い果たしていたといいます。

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 【了】

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【参考文献】
・山崎富栄 著・長篠康一郎 編纂『愛は死と共に 太宰治との愛の遺稿集』(虎見書房、1968年)
・長篠康一郎 編集兼発行人『探求太宰治 太宰治の人と芸術 第4号』(太宰治研究会、1976年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「日本円貨幣価値計算機」(https://yaruzou.net/hprice/hprice-calc.html
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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