1月15日の太宰治。
1941年(昭和16年)1月15日。
太宰治 31歳。
美知子とともに伊豆伊東温泉に一泊旅行をした。
太宰と旅行
太宰と旅行について、津島美知子『回想の太宰治』からの引用で見ていきます。
昭和十五、六年頃はまだ戦争の影響もさほどでなく、太宰の身辺も平穏であった。
この頃は小旅行をよく試みた。そのうちで私が同行したのは、十六年の小正月の伊東への一泊旅行と、十五年七月の伊豆旅行の帰途とである。甲府には頻繁に行った。太宰は甲府市内はもちろん、勝沼の葡萄園 、夏は月見草でうずまる笛吹川の河原や、甲運亭という川べりの古い料亭、酒折宮 や善光寺、湯村温泉、富士川沿いに南下して市川大門町などに足跡を残しているから、やはり郷里についでは甲州をよく歩いている。
伊東の旅行のときは、一度きめて入った宿なのに、気に入らずに出て、別の旅館に行ったり、帰りに寄った横浜の中華街では、安くてうまい店を探してさんざん歩きまわり結局つまらない店に当たったりして、この一泊旅行といい、八十八夜の旅といい、「東京八景」を書くため滞在した湯ケ野の宿といい、宿屋の選定、交渉などは全く駄目な人であった。結局それは旅行下手ということにもなるだろうと思う。誰でも初めての旅館の玄関に立つことには、ためらいを感ずるものではあるが。太宰の場合、郷里では旅先にそれぞれ定宿があり、生家の顔で特別待遇を受けてきた。生家の人みな顔の利かないところへは足をふみ入れない主義のようである。そして旅立ちとなると、日程、切符の入手、手荷物の手配、服装に至るまで、いっさい整えられて身体だけ動かせばよいのだ。過保護に育ち、人任せの習慣が身についていた。その一方一度行ってよい印象を受けたところには、二度三度と訪れて、案内役のような形で先輩友人と同行している。三保灯台 下の三保園、甲州の葡萄郷や甲府市街、湯村温泉、奥多摩などである。結局三島から西には旅行することなしに終ってしまったが、戦時中だったためにそういう結果になったまでで、旅行ぎらいではなかった。食堂車でビールを飲む楽しさを語ったことがあるから、長生きしていたら大いに旅行していたかもしれない。気が利いて何から何までやってくれるおともがいたらという条件つきであるがーー。
「三島から西には旅行することなしに終ってしまった」太宰ですが、1946年(昭和21年)1月25日、太宰は一番弟子の
拝復 とにかく御無事の御様子、何よりです。こちらは浪々転々し、とうとう生れた家へ来ましたが、今年の夏までには、小田原、三島、または京都、なんて考えている。東京には家が無いだろうから、東京から汽車で二、三時間というところ、そのへんに落ちつく事になるだろうと思っている。
天皇が京都へ行くと言ったら、私も行きます。このごろの心境如何 。心細くなっていると思う。苦しくなるとたよりを寄こす人だからね。
この手紙は、太宰が青森県金木町の生家に疎開している時に書かれましたが、その宛先は京都市左京区の「三森豊方 堤重久宛」となっています。弟子から京都での生活について聞かされ、京都への移住も検討していたのでしょうか。
■1942年(昭和17年)4月、奥多摩で一番弟子・堤重久と。太宰は堤に、死の直前まで最も心を許し、親愛の情を示したそうです。撮影・桂英澄
もし、太宰が長生きしていたら、美知子の言う通り「大いに旅行」した旅行記なんかも読めたかもしれません。
【了】
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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社学芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・公益財団法人神奈川文学振興会 編『生誕105年 太宰治展 ー語りかける言葉ー』(県立神奈川近代文学館、2014年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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