記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】5月29日

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5月29日の太宰治

  1945年(昭和20年)5月29日。
 太宰治 35歳。

 五月下旬か六月上旬の頃、甲府市郊外、山向こうの御岳昇仙峡の入口の近くにある千代田村(ちよたむら)上野の石原家の遠戚久保寺家に、約七(キロメートル)の道程を、自ら大八車を()き、美知子が長男正樹を背負って後押しをし、著書や衣類や蒲団などを疎開させた。久保寺家は、美知子の祖父の姉の嫁ぎ先であったが、荷物を預けたのは、久保寺家の分家久保寺昌訓宅であった。

太宰、甲府で「荷物疎開

 太宰が、三鷹から甲府疎開していた、1945年(昭和20年)5月25日。
 アメリカ空軍のB29が、甲府上空を通過。甲府にB29が飛来したのは、これがはじめてでした。
 この頃、東京の住民は家をたたんで地方に疎開する人が多かったが、甲府の人たちは比較的のんびりしていて、家財道具だけを安全なところに運んでおく、「荷物疎開」をする方針の人が多かったそうです。

 この時の様子を、太宰の妻・津島美知子『回想の太宰治から引用して紹介します。

 千代田村(ちよたむら)は峡谷美で名高い甲州の御岳昇仙峡の入口にある山村で、いまは甲府市編入されている。千代田湖という人造湖が造られ、観光自動車道が開通しているそうで、村の有様も人々の生活も一変したことであろうが、戦前は交通不便な山里であった。

 

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千代田湖 灌漑(かんがい)用の人造湖。正式名称は、丸山貯水池。一帯は、県立の森林公園に囲まれている。

 

 昭和二十年の春から甲府市水門町に疎開していた私たちは、この村のU部落のK家に荷物をあずかってもらうことになった。
 東京の住民の多くは家をたたんで地方へ疎開したが、甲府の人たちは、町に住んだままで家財道具だけを郡部のしるべに預かってもらう方針の人が多かった。天然の険を信頼していたのか、甲府の人たちは一般に空襲に対してのんびりしていた。
 もう私の実家でも下町の叔母の家でも、馬力で千代田村に荷物を運んだということだった。
 荷物疎開だけでなく、UのK家と、私の実家とは食料のことで、この頃交渉が多い様子であった。祖父母が死に、父母も死んで次第に疎遠になる傾向だったのに、食料欲しさにつきあいを復活するようで気恥ずかしかったが、先方では案外、町の人たちとの取引、物々交換を歓迎しているようであった。千代田村だけでなく他の農村とも縁故を辿って衣料と食料の交換をしていたが、まだ袖を通していない小紋の羽織が、小麦粉一斗(十八リットル缶一つ分)くらいだった。私と妹とは義侠的なことでもするかのように競って衣料を出したが、派手な妹のものよりも私の衣料の方が農村では歓迎されるので、妹は済まながっていた。
 荷物疎開といっても、私たちはタンス、鏡台、机、瀬戸物類など、梱包の難しいものは三鷹に置いてきていたから、太宰のこれまでの著書を収めた木箱と行李とフトン包くらいの荷物なので、大八車で間に合うのだが、それが容易に借りられず、やっと同じ町内に住んでいた村上芳雄氏(「中部文学」同人)夫人のお骨折で借りることができたのは、五月末か六月に入っていたかもしれない。
 千代田村までは、甲府から北西に七キロの距離であるが、山あいの村で、市街よりは百メートル程高く、往きは上り一方なので、荷物を運ぶには、早朝暗いうちに起きぬけで行って、昼までに帰ってくると暑い日中の上りが避けられて、一番楽だという。経験者の言うことに従って、私たちも短夜のまだ明けきらぬうちに出発して、千代田村へ向かった。
 亭主が梶棒の間に入って体でひき、女房があと押しする。こんな姿は、戦後三十年の今では町でも村でも見られない。大八車を知らない人も多いだろうが戦時中の当時は町中でも珍しくない光景であった。三鷹は半農村なので、前からよくこのような光景を見かけていた。

 

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■大八車

 

 太宰は釘をうったり縄かけしたりなどは、全然面倒がってやらないし、防空壕掘りのような力仕事も駄目、細い腕、細く長い指はペンを持つだけのものだったが、上半身に比して下肢が発達していて、足を使うことにはそれほど抵抗を感じないらしかった。若いとき喧嘩が始まったとみると逃げ出して、その逃げ足の早さに、「(はやぶさ)の銀」といわれたものだ、と言っていたが、歩くことも割合よく歩いたし、この朝、荷車をひくことにも、全く難色を示さず、それどころか、眠くてぐずぐずしている私よりもさきに起きて、身支度を調(ととの)えて、私を促すほど積極的だった。
 市街を西に出はずれると、通称塩部田圃(しおべたんぼ)というまっすぐ信州に向かってのびた往還で、ここは木蔭一つなく、路傍の草も田の稲もまっ白に(ほこり)を浴びて、夏も冬もゆききの人にとっての難所である。右手は山裾まで四十九連隊の射的場と練兵場がつづき、左手は田圃で中央線の列車が一キロ程さきを時折小さく走っている。
 やがて山の鼻がぐっと街道に迫って、その山かげにある湯村温泉へ行く道が分かれている。湯村には温泉宿が軒を並べていて、太宰は執筆のために以前来たことがあり、東京からの客や家族と遊びにもきた。毎年二月の村の厄除地蔵のお祭りには、作中人物「黄村(おうそん)先生」が山椒魚の見世物を見たことになっている。

 

●太宰が、湯村温泉で執筆していた際のエピソードは、2月23日の記事で紹介しています。

 

 千代田村はもう一つ、湯村山の先につき出た、もっと大きくて高い、山のかげにあるので、荒川に架かった橋の手前で、本街道と分かれて、荒川に沿って北へ向かう。道はゆるやかな上りで、やがて山の鼻と荒川とすれすれのところまできて、太宰は車を止めて、めしにしようと声をかけて、川岸の岩の上に上った。このへんまでくると、白っぽい大小の岩石がごろごろして、川水が(あお)(よど)んだり、奔流(ほんりゅう)したりして、花崗岩(かこうがん)風景の特色を現わしている。
 朝食は、前夜用意しておいたおむすびで、食料難の折でもこのような場合には、たっぷりとっておきの材料をつかって作るので、出発のときからの楽しみであった。
 昇仙峡は、この渓流と山の間の狭い道をまっすぐ北に行くのだが、U部落に行くには、その途中から右に折れて、かなりの急坂を上らなければならない。坂の下で私たちは立ち止まって相談して、車も荷物もこのままここに置いて、K家に行って手を借りることにきめた。坂を上りきった左手に、Kの本家がある。この家に、私の大伯母が嫁いできている縁故で、子供のころ祖父に連れられてきたことがある。長屋門の構えは、その頃と少しも変わっていないように思われた。私たちが荷物を預かってもらうのは、その隣のKの新家(しんや)で、新家にはこのとき初めて来たのだが、門も塀もない、見るからに気楽そうな分家で、道路ぎわの前庭の一隅に、山の水をひいて、小さい池が作られ、夏の草花が咲いている。よんでも誰も出て来ないので、朝陽のいっぱい当っている縁側に、背に負うてきた子をおろしてまた引き返した。戦争も知らぬ気な、こののんびりした村が羨ましく思われた。

 

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■太宰の長男・津島正樹 4歳の頃。1948年(昭和23年)撮影。

 

 道々、太宰が「ひどい山村じゃないか。畑なんてどこにもないじゃないか」と言った。ほんとに、どこにも畑は見当たらない。どこか離れて山畑が作られているのだろうか、食料が有り余って衣料と交換したわけではなく、貴重な食料ではあるが、娘可愛さに、または有利な取引と考えて、衣料と交換したのであろうか。村人の生活のことはよくわからないけれども、満目(まんもく)の稲田の中にある太宰の生地に比べたら、一見何を食べて生きているのだろうと不審に思うのが当然のような山村である。
 坂の下から荷車をひいたり押したり、途中まで上がったとき、「おーい、水門町の!」と、下から呼び声が聞こえて、ふり返ると、K家のМさんが笑い顔で、手を挙げていた。Мさんは父の従兄(いとこ)の息子で、頬に大きな黒子(ほくろ)のある昔のままの風貌(ふうぼう)である。ゲートルを巻き、手拭(てぬぐい)を首にかけ、水源地の見廻りに行った帰りらしい。Мさんの力で、なんの苦もなく荷車はМさんの家に運びこまれた。
 おばさんも家に帰っていて、Мさんが私たちの荷物をおろして、二階に運び上げてくれている間に、お盆にコハク色の液体を(みた)した小さなグラスを二つのせて、私たちの前において、またすぐ引き返して、カマドを()きつけて湯を沸かし始めた。太宰は自分のグラスをのみほすと素早く私の前のグラスに手をのばした。
 Мさんによばれて二階に上がってみると、もとは蚕室に使っていたのだそうで、天井はやや低いが、広々した明るい部屋で、叔母の家や、叔母の小姑(こじゅうと)の婚家の家財道具、私の妹の嫁入り道具などが、家紋を染めぬいた油単(ゆたん)や、鏡台掛けを掛けて、整然と並んでいた。私は自分たちの荷物が、いかにも貧し気なのが恥ずかしかった。どんな場合にも、見栄がつきまとうものらしい。

 

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 下の座敷でおばさんのもてなしを受けながら、Мさんの話を聞いた。
「千代田村は水源地だから、敵機にねらわれる、なんていう人もいるが、こんな山家まで爆撃されるようでは、日本もおしまいだ」
 U部落の少し北に荒川の取水堰があり、U部落に、その川水を済ませたり()したりする池が設けられていて、甲府市民と市街の兵営とに供給する上水の源になっていた。Мさんの先代は、水車小屋を持っていたが、Мさんの代になってから、市の水道局に依嘱(いしょく)されて水源地の管理をやっている。水車小屋でも精米製粉も、水源地の管理も、信用がなくてはできないことだし、生きてゆくのに欠かせぬ大切な仕事だからと、これは、新家のМさんの誇りなのである。
「土蔵は火事には強いが、空襲のときは上から落とされるのだから頼みにならない。焼夷弾が土蔵の屋根を抜けて落ちたのに、気付くのがおくれて、蔵の中のものいっさい蒸し焼きになったという話があるそうだ」
 もとの蚕室に荷物を預かったことについて、土蔵をもたぬМさんは言った。
 隣のK本家には大きな土蔵がある。旦那は事業家で、村の山かげの(むろ)に池の氷を貯蔵しておき、暑くなると馬力で運んで、甲府の繁華街の店で売り出していた。「Kの天然氷」といって、電気製氷が盛んになるまで繁昌していた。叔母さんがМさんと親しくしているので、こんどの荷物疎開もK本家でなく、Мさんの新家に頼むことになったのである。
 部屋の隅に立て廻してある大きな屏風(びょうぶ)を、Мさんは見て笑いながら、「この屏風は、昔、米のカタに、石原から預かったものだ」と古い話を持ち出した。漢詩の屏風である。いつのことか知らないが食料に困ると、私の実家ではこの山里を頼ったらしいのである。
 太宰は聞いているのか、いないのか、黙然(もくぜん)としていた。先程の梅酒のことでも考えているのだろう。私は母の遺品の帯を、土産とも保管の札ともつかず置いて、帰途についた。
 急坂の上までくると、太宰は私に荷車に乗れ、と言い出した。私は一瞬、耳を疑ったが、から車はかえって()きにくいんだ、と、経験があるように言うので、背の赤子をおろして抱いて、荷台に坐り、あとは楽々と町にくだった。
 市内に入って、白木町の角近くになると、何やら人垣ができて、警官が整理している。遠眼の利く私が車を止めてと言うのに、近視の太宰はかまわず進んで、人垣の端についたとたん、高級車が二台、前を通り過ぎて、若い軍服姿の皇族が見えた。それは、二年程前、内親王と結婚して、度々、新聞紙上で見た方であった。聯隊(れんたい)司令部か、甲府中学に疎開している陸軍大学に行く途中だったのだろう。太宰は、そこですかさず、宮さまが女房孝行の男がいる、とおれの方を見て笑っていたよ、と、冗談を言った。

  写真は残っていませんが、この頃の太宰は、坊主刈りにしていて、颯爽(さっそう)とした髪型だったそうです。

 【了】

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【参考文献】
・長篠康一郎『太宰治文学アルバムー女性篇ー』(広論社、1982年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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