記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】5月30日

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5月30日の太宰治

  1937年(昭和12年)5月30日。
 太宰治 27歳。

 五月下旬、早稲田大学出身の、浅見(ふかし)の親友浅沼悦太郎の招きで、浅見淵井伏鱒二川崎長太郎、秋沢三郎、永松定、塩月(たけし)等と三宅島に行って、汽船発着所の二階を宿舎に一週間滞在した。

太宰、三宅島に遊ぶ

 1937年(昭和12年)5月下旬、太宰は1週間、三宅島に遊びます。
 これは、5月9日に「青春五月(さつき)党」を結成し、現在の練馬区石神井公園で合コンをしたのと同じ月の出来事です。

 太宰は同年3月、小山初代とともに、群馬県水上村谷川温泉に行き、「水上心中事件」を起こしています。冒頭で紹介した合コンも、今日紹介する三宅島行きも、太宰を元気づけようとした師匠・友人たちの動きでした。

 落ち込んでいる太宰を元気づけようとした師匠・井伏鱒二は、郷土史家の浅沼悦太郎(三宅村出身)が文学仲間と企画していた旅に、太宰を誘いました。太宰は、船に乗ったことが無い、と戸惑っていたそうですが、最終的には同行を認めたそうです。

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■三宅島、大路(たいろ)池のほとりで(いこ)う太宰 撮影:浅沼悦太郎

 三宅島を訪れた際の写真が、1枚残っています。太宰が、池のほとりでたたずんでいる様子です。
 この池の名前は、大路(たいろ)池」 。大路池は、約2000年前の噴火で出来た火口湖で、バードウォッチングやトレッキングの名所として知られ、多くの観光客が訪れます。周囲2キロ、水深30メートルの、伊豆諸島最大級の淡水湖でもあります。
 2019年(平成31年)、三宅村と三宅島観光協会は、太宰が島に来たことを示すため、上の写真が掲載された看板を設置しています。看板が設置されたのは、太宰が生誕110年の節目の年でもあり、関係者は「三宅島にも太宰ゆかりの地があることを知ってもらいたい」と話していました。

 太宰は、この時の様子を短編小さいアルバムに書いているので、該当部分を引用して紹介します。

  見給え、この湖水にしゃがんで、うつむいて何か考えている写真、これはその頃、先輩たちに連れられて、三宅島へ遊びに行った時の写真ですが、私はたいへん淋しい気持で、こうしてひとりしゃがんでいたのですが、冷静に批判するならば、これはだらしなく居眠りをしているような姿です。少しも憂愁(ゆうしゅう)の影が無い。これは、島の王様のA氏が、私の知らぬままに、こっそり写して、そうしてこんなに大きく引き伸しをして私に送って下さったものです。A氏は、島一ばんの長者で、そうして詩など作って、()わば島の王様のようにゆったりと暮している人で、この旅行も、そのA氏の招待だったのです。私たち一行は、この時はずいぶんお世話になりました。筆不精の私は、未だにお礼状も何も差し上げていない仕末ですが、こないだの三宅島爆発では、さぞ難儀をなさっただろうと思いながら、これまたれいの筆不精でお見舞い状も差し上げず、東京の作家というものは、ずいぶん義理知らずだと王様も(あき)れていらっしゃるだろうと思います。

  小さいアルバムが書かれたのは、1942年(昭和17年)6月上旬頃。「こないだの三宅島爆発」とは、1940年(昭和15年)の噴火を指していると思われます。

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■三宅島

 この時、太宰は三宅島に1週間滞在していますが、これは、汽船が1週間に1度しか寄港しなかったためだそうです。

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■大路池

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・「太宰癒した三宅島」(2019年3月8日付「陸奥新報」)
・HP「三宅島観光協会」(https://www.miyakejima.gr.jp/see/tairoike/
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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