記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】5月31日

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5月31日の太宰治

  1939年(昭和14年)5月31日。
 太宰治 29歳。

 五月三十一日付で、竹村書房 竹村坦(たけむらたん)宛に手紙を送る。

「全く望外の印税」速達で届く

 まずは、1939年(昭和14年)5月31日付で出された、太宰の手紙を紹介します。

  甲府市御崎町五六より
  東京市四谷区北伊賀町一二 竹村書房 竹村坦宛

 謹啓
 本日は全く望外の印税、それも速達にて御恵送下され、お礼の言葉も無き有様でございます。
 今夜の感激、終生忘却することなくきっと立派の作家になり、必ず必ず御好志にお報い致可(いたすべ)く、小生も一個の男児ゆえ不遇のうちにほどこされたる御情、ゆめにも忘れるこのなく御志、必ず裏切ることございませぬ。
 心に深く銘記して居ります。
 あれこれ小生のわがままも思い出され、竹村氏の御海容の情感奮致して居ります。
 誰がなんと言おうと私は知って居ります。今後とも潔癖高邁の愛情をお持ちなされよい作家をお育て下さいますよう、私もきっとよい作家になり皆様何かおちからになりたいと念じて居ります。
 右、宣誓をいたします。
 東北から出て来た田舎者ゆえ、すべて気がきかず竹村氏から見て何かと可笑しく不器用のことございましょうが、けれども、ひとの真情にはひと一倍敏感にてそのまま、おのれの真情にてお報い申したき念願に燃えていることお信じ下さい。
 意あまって言葉足らず、これから東京近郊へすぐ移住いたし(なにもかも、おかげさまでございました)しばしば拝眉(はいび)、変ることなき敬愛の交、願わしく存じ上げます。
 今宵は、不取敢(とりあえず)心からなるお礼まで。  敬具。
                 太 宰 治
  竹 村 坦 様

 冒頭の「本日は全く望外の印税、それも速達にて御恵送下され、お礼の言葉も無き有様でございます」とは、1939年(昭和14年)5月20日付で竹村書房から刊行された、太宰の第4創作集『愛と美について』の印税だと思われます。

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■第4創作集『愛と美について』 書き下ろし短篇集。「読者に」「秋風記」「新樹の言葉」「花燭」「愛と美について」「火の鳥」収載。

 太宰は、この年の1月8日に、師匠・井伏鱒二の媒酌で、妻・美知子と結婚し、これまでの荒廃した日々と決別し、作家として再起することを志していました。

 結婚して早々、竹村書房主の竹村坦(たけむらたん)から短篇集刊行の話があり、「竹村書房から、『委細承知した、原稿送れ』という電報まいりましたので、不取敢(とりあえず)、原稿整理にとりかかって居ります。一週間以内には竹村に送付できると思います」と、意気込んだ手紙を井伏に送っています。
 太宰は、某雑誌社に送っていた原稿100枚を「こんど竹村書房から書き下ろし短篇集出すことになったから御返送たのむ」と、『愛と美について』に収録するため返却を依頼するのですが、「少しお待ち()う」の一点張りで、なかなか原稿が返送されてきません。
 そして、やきもきする太宰の手元に届いたのは、雑誌社の責任者が書いた「長い手紙」でした。そこに書かれていたのは、「原稿送りかえそうとして、その原稿紛失している、それから八方捜査」しているが見つからず、警視庁にも紛失届を出しているが見つからない旨でした。
 この時のエピソードは、「原稿百枚紛失事件」として、2月4日の記事で紹介しました。

 結局、紛失した原稿は発見されることはありませんでした。太宰は竹村に「自信ある書き下しの作品まとめて、上京」し、竹村に必ず原稿を届けることを約束し、再度、原稿100枚の作品執筆にとりかかります。太宰が、原稿を揃えて上京、竹村に原稿を手渡したのは、3月25日のこと。
 出版まで心労が絶えない短篇集だっただけに、「望外の印税」を受けとった時は嬉しく、同時に、安心したのではないでしょうか。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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