6月4日の太宰治。
1939年(昭和14年)6月4日。
太宰治 29歳。
六月二日、朝六時、美知子とともに甲府を出発し、貸家を捜すために上京。
難航する東京での貸家捜し
5月26日の記事で、太宰が、お目付け役・
最初に紹介するのは、6月1日付で
鰭崎は、洋画家で、太宰の四姉・きやうの義弟。小舘善四郎の友人で、1935年(昭和10年)8月頃から、太宰の船橋の住居に出入りし、親交を深めていました。山岸外史と並び、太宰に聖書体験をもたらした人物の1人とも言われています。
太宰が、本格的に甲府から東京への転居を考えるにあたり、頼ったのが、この鰭崎でした。
甲府市御崎町五六より
東京府下小金井町新田四六四 鰭崎潤宛
拝啓
その後、皆様おかわりなくて、いらっしゃいますでしょうか。すっかり、ごぶさたしてしまいました。ようやく、どうにか少し、思いあらたなるところ在り、いままで皆様にごめいわくおかけ致し、悪事も重ねたように思いますが、今後は私も、ようやく、ゴマカシの無い一個の男児として、爽やかにおつきあいできるようになりました。ほんとうに、おかげさまでございました。きょうはまた、速達にて、わざわざお知らせ下さいまして、ありがとうございます。三種の家屋のうち、最も小さい、三室の家が適当かと存じます。あす朝に甲府を出発して、国分寺へ見に行きたいと思います。国分寺に到着するのは、九時か九時半ごろになると思います。もし、おひまでしたら、その時刻に、国分寺駅へおいで下さいませぬか。御用が他におありでしたら、むりにおいでなさらなくとも、私、デタラメに国分寺を片っぱしから捜してみますから、その点は、御心配なさらぬよう。
どうやら、このハガキ以前に、鰭崎へ依頼をし、物件候補を捜し速達で送ってもらっていたようです。
太宰は早速、6月2日に妻・美知子を伴って、国分寺へ降り立ちます。この日の様子を、太宰は、6月4日付で鰭崎に宛てて書いたハガキに書いています。
甲府市御崎町五六より
東京府下小金井町新田四六四 鰭崎潤宛
拝啓
あの日に、お逢いできず、残念でした。でも、あの新築中の家、捜し出すことができましたから、御休心下さい。残念のことには、もう全部が、すでに契約済になってしまっていて、如何 ともしがたく、それから三鷹、吉祥寺、西荻、と、とうとう荻窪の井伏さんのお宅まで来てしまいました。六里は、たっぷり歩きました。貸家札一つも無く、おどろきました。吉祥寺の三鷹寄り、井の頭公園の奥、松本訓導殉死の川を越えて、あの辺は、なんというところかしら、とにかく、三鷹、吉祥寺間、井の頭公園裏の麦畑の中に、六軒、新築中の家がありましたが、皆二十七円で、少しそれでは高すぎますし、家主さんと交渉したところ、六月末にその六軒の前方に更に三軒、二十三、四円の家をたてるつもりだとの話を聞き、それでは、それがたちかけたころ、また東京へ出かけてゆき、交渉しようと、いうことにして甲府へ帰って来ました。六月末に、また、そこへ出かけて行くつもりですが、鰭崎さんも、おひまの折、あの辺散歩なさったら、見て置いて下さい。他にも、いいところあったら知らせて下さい。家賃は、二十三、四円以上だと困るのです。
不一。
なかなか、貸家捜しは難航しているようです。
5月26日付の中畑宛の手紙で、太宰は、「仕事には、ちょうどいい」場所として、浅川、八王子、国分寺、荻窪を挙げていましたが、どうやら「井の頭公園裏」に目星をつけはじめたようです。
ちなみに、太宰の理想の家賃「二十三、四円」は、現在の貨幣価値に換算すると、約28,000円~35,000円相当です。現在の家賃相場で考えると、なかなかの格安物件です。
太宰は、鰭崎に報告のハガキを書いた同日の6月4日付で、第4創作集『愛と美について』を出版したばかりの竹村書房・
甲府市御崎町五六より
東京市四谷区北伊賀町一二 竹村書房 竹村坦宛
拝啓
拙著の広告掲載の新聞、「篁 」それから回送ハガキなど、たくさんいただき、お礼申し上げます。一昨日、二日六時に甲府を出発して、国分寺、三鷹、吉祥寺、西荻、荻窪、片っぱしから、踏破し、貸家さがしましたが、見当らず、いまさらながら驚きました。
でも、吉祥寺、井の頭公園の裏に、あと一ヶ月くらいで、建つ筈 の、二十三、四円の家値段もそんなに高くないので、六月下旬にまたそこへ出かけて、建築に着手しているなら、交渉して、すぐきめてしまおうと思い、まず、それにきめて、かえりましたが、甲府もそろそろ焼きつけるように暑く、早く井の頭のほうへ行きたく思います。 不一。
太宰は、「すぐきめてしまおうと思い、まず、それにきめて、かえりましたが」と書いていますが、優柔不断なイメージのある太宰が、こんなにきっぱりと物事を決めてしまうのは、珍しいようにも感じられます。
この時、一緒に貸家捜しをした美知子は、『回想の太宰治』で、次のように回想しています。
暑さの加わる頃から東京に移り住むことを考えるようになった。この家にも訪ねてくださる方はあったが、太宰はもっと心おきなく語り合い
刺戟 し合う先輩や仲間が近くにいて欲しかったのだと思う。荻窪かいわいの馴染の店で気心知れた方々と飲み且 つ放談する雰囲気が恋いしくなってきたのだろう。(中略)太宰はこれまで家なり下宿なり、自分で探し歩いてきめたことなど無く、誰かが用意してくれたところに住んできたから、この家探しのとき気乗りしない迷惑気な様子で、家賃さえ廉 ければよい、早くこんな雑事から脱 れたい気持が見えて、私はさびしく頼りなかった。
作家にとって家は住居であるとともに仕事場でもある。仕事だけに専念して世俗的な用向きは一さい関わりたくないという、それは理想であるが、「家」のことともなれば、一家の主人としてもっと、関心をもち積極的に動いて欲しいと思ったのだが、彼の方は私や私の実家の力の無さに不満を持っていたのかも知れない。
【了】
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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「日本円貨幣価値計算機」(https://yaruzou.net/hprice/hprice-calc.html)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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