記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】6月5日

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6月5日の太宰治

  1948年(昭和23年)6月5日。
 太宰治 38歳。

 六月四日の夕方、自宅から打電して、「新潮」編輯記者野平健一を呼び、ほとんど徹夜して、「如是我聞(にょぜがもん)(四)」を口述筆記させ、六月五日に完成した。

如是我聞(にょぜがもん)』の口述筆記③

 今日は、5月13日の記事で紹介した、太宰渾身のエッセイ『如是我聞』三回に続き、四回を全文引用して紹介します。『如是我聞』最終回です。

 この頃の太宰について、『如是我聞』の口述筆記を担当した新潮社の野平健一は、エッセイ「『如是我聞』と太宰治の中で、次のように書いています。

 六月四日、都合で、私は帰宅が夜九時になった。太宰さんから電報である。
 スグ ジタクヘ オイデコウ ダザイ
 五時過ぎての発信である。私はぎくりとした。これは、なにかの変事、と思い、何かの御用にも、と考えて私は、女房同道、急いだ。(ある)いは、太宰治の死?
 玄関を開けたら、鼻をつく、線香のにおい、これはいよいよ、と思ったら太宰さんが出てこられて、ほっとした。においは蚊取線香だったのである。私はどうかしている。
 太宰さんはいまから『如是我聞(にょぜがもん)』を書こう、と言われる。最近の「新潮」にとって、この日、七月号の原稿が頂けるなら、破格の早さである。
 太宰さんは、しきりに、本箱をがたがたいわせ、あの本この本、ひっくりかえして、何かを探していたが、ないらしく、
「おい、志賀チョクサイの本はなかったかね。何かあるだろう」
 奥さんも一緒になって、かなり長い間、かきまわしておられたがとうとう見つからず、
「縁がないんだねえ。まあいい」。それから、夜更(よふ)けて家を出、仕事部屋の前にくると、私の女房に向い、
「奥さん、今晩一晩だけ、ご主人をお借りしますよ」

 

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■仕事部屋 「永塚葬儀社」の2階に山崎富栄が下宿しており、1947年(昭和22年)9月頃から、富栄の部屋でも執筆した。向かいにあるのが、小料理屋「千草」。つきあたりは、玉川上水。1948年(昭和23年)撮影。


 仕事は徹夜で、はかどった。
「きみが、句点の調子や、文章のくせをよくおぼえてくれたので、とても早く、進んだね」
 太宰さんは、疲れやすめの酒といって、私にもついでくれ、女もいない二人で、しずかに飲みながら、雑談をしていたのだが、
「この前、原稿料をとどけに、寄ってくれたらしいね。君だ、ということを言わないから、……あのときも、ここにいたんだよ」
 私は、いま有名の女を、妙な女だと思い、『女類』(「八雲」創刊号)という小説を、ちらと思い浮べて、笑いがこみあげてきた。
「家の近くで、女房にみつかったよ。すぐ近くまで、こっちは二人とも近眼だから、気がつかなかったんだ。あとで女房に、そう言われた。あの女のひとはどなたですと言ってたけれど、あのとき二人の間は、一間位はなれていたから、おれは知らないと言った。女房の方で、気づいて、()ぐまがってくれたらしいね」

 

●「家の近くで、女房にみつかった」エピソードは、5月16日の記事で紹介しています。

 そうして、女が買いものから帰ってくると、「おれの女房は、やっぱり気品があるね。このひととは、ちがうな」と私に言われるので私は誰の顔も見ずに、うなずいた。
 私は、この日、久し振りで、まだ日も中天、という時刻に、いつもの通り、お宅までお送りした。

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■野原一夫(左)と野平健一(右) 2人は、斜陽などを担当した新潮社の編集者。1947年(昭和22年)撮影。 

如是我聞(にょぜがもん)

     四

 或る雑誌の座談会の速記録を読んでいたら、志賀直哉というのが、妙に私の悪口を言っていたので、さすがにむっとなり、この雑誌の先月号の小論に、附記みたいにして、こちらも大いに口汚なく言い返してやったが、あれだけではまだ自分も言い足りないような気がしていた。いったい、あれは、何だってあんなにえばったものの言い方をしているのか。普通の小説というものが、将棋だとするならば、あいつの書くものなどは、詰将棋である。王手、王手で、そうして詰むにきまっている将棋である。旦那芸の典型である。勝つか負けるかのおののきなどは微塵(みじん)もない。そうして、そののっぺら棒がご自慢らしいのだからおそれ入る。
 どだい、この作家などは、思索が粗雑だし、教養はなし、ただ乱暴なだけで、そうして己れひとり得意でたまらず、文壇の片隅にいて、一部の物好きのひとから愛されるくらいが関の山であるのに、いつの間にやら、ひさしを借りて、図々しくも母屋に乗り込み、何やら巨匠のような構えをつくって来たのだから失笑せざるを得ない。
 今月は、この男のことについて、手加減もせずに、暴露してみるつもりである。
 孤高とか、節操とか、潔癖とか、そういう讃辞を得ている作家には注意しなければならない。それは、(ほと)んど狐狸(こり)性を所有しているものたちである。潔癖などということは、ただ我儘(わがまま)で、頑固で、おまけに、抜け目無くて、まことにいい気なものである卑怯でも何でもいいから勝ちたいのである。人間を家来にしたいという、ファッショ的精神とでもいうべきか。
 こういう作家は、いわゆる軍人精神みたいなものに満されているようである。手加減しないとさっき言ったが、さすがに、この作家の「シンガポール陥落」の全文章をここに掲げるにしのびない。阿呆の文章である。東条でさえ、こんな無神経なことは書くまい。甚だ、奇怪なることを書いてある。もうこの辺から、この作家は、駄目になっているらしい。
 言うことはいくらでもある。
 この者は人間の弱さを軽蔑している。自分に金のあるのを誇っている。「小僧の神様」という短篇があるようだが、その貧しき者への残酷さに自身気がついているだろうかどうか。ひとにものを食わせるというのは、電車でひとに席を譲る以上に、苦痛なものである。何が神様だ。その神経は、まるで新興成金そっくりではないか。 またある座談会で(おまえはまた、どうして僕をそんなに気にするのかね。みっともない。)太宰君の「斜陽」なんていうのも読んだけど、閉口したな。なんて言っているようだが、「閉口したな」などという卑屈な言葉遣いには、こっちのほうであきれた。
 どうもあれには閉口、まいったよ、そういう言い方は、ヒステリックで無学な、そうして意味なく(たか)ぶっている道楽者の言う口調である。ある座談会の速記を読んだら、その頭の悪い作家が、私のことを、もう少し真面目にやったらよかろうという気がするね、と言っていたが、唖然(あぜん)とした。おまえこそ、もう少しどうにかならぬものか。
 さらにその座談会に於て、貴族の娘が山出しの女中のような言葉を使う、とあったけれども、おまえの「うさぎ」には、「お父さまは、うさぎなどお殺せ(、、、)なさいますの?」とかいう言葉があった(はず)で、まことに奇異なる思いをしたことがある。「お殺せ」いい言葉だねえ。恥しくないか。
 おまえはいったい、貴族だと思っているのか。ブルジョアでさえないじゃないか。おまえの弟に対して、おまえがどんな態度をとったか、よかれあしかれ、てんで書けないじゃないか。家内中が、流行性感冒にかかったことなど一大事の如く書いて、それが作家の本道だと信じて疑わないおまえの馬面(うまづら)がみっともない。
 強いということ、自信のあるということ、それは何も作家たるものの重要な条件ではないのだ。
 かつて私は、その作家の高等学校時代だかに、桜の幹のそばで、いやに構えている写真を見たことがあるが、何という嫌な学生だろうと思った。芸術家の弱さが、少しもそこになかった。ただ無神経に、構えているのである。薄化粧したスポーツマン。弱いものいじめ。エゴイスト。腕力は強そうである。年とってからの写真を見たら、何のことはない植木屋のおやじだ。腹掛(どんぶり)がよく似合うだろう。
 私の「犯人」という小説について、「あれは読んだ。あれはひどいな。あれは初めから落ちが判ってるんだ。こちらが知ってることを作家が知らないと思って、一生懸命書いている。」と言っているが、あれは、落ちもくそもない、初めから判っているのに、それを自分の慧眼(けいがん)だけがそれを見破っているように言っているのは、いかにももうろくに近い。あれは探偵小説ではないのだ。むしろ、おまえの「雨蛙(あまがえる)」のほうが幼い「落ち」じゃないのか。
 いったい何だってそんなに、自分でえらがっているのか。自分ももう駄目ではないかという反省を感じたことがないのか。強がることはやめなさい。人相が悪いじゃないか。
 さらにまた、この作家に就いて悪口を言うけれども、このひとの最近の佳作だかなんだかと言われている文章の一行を読んで実に不可解であった。
 すなわち、「東京駅の屋根のなくなった歩廊に立っていると、風はなかったが、冷え冷えとし、着て来た一重外套(がいとう)で丁度よかった。」馬鹿らしい。冷え冷えとし、だからふるえているのかと思うと、着て来た一重外套で丁度よかった、これはどういうことだろう。まるで滅茶苦茶である。いったいこの作品には、この少年工に対するシンパシーが少しも現われていない。つっぱなして、愛情を感ぜしめようという古くからの俗な手法を用いているらしいが、それは失敗である。しかも、最後の一行、昭和二十年十月十六日の事である、に到っては噴飯のほかはない。もう、ごまかしが、きかなくなった。
 私はいまもって滑稽(こっけい)でたまらぬのは、あの「シンガポール陥落」の筆者が、(遠慮はよそうね。おまえは一億一心は期せずして実現した。今の日本には親英米などという思想はあり得ない。吾々の気持は明るく、非常に落ちついて来た。などと言っていたね。)戦後には、まことに突如として、内村鑑三先生などという名前が飛び出し、ある雑誌のインターヴューに、自分が今日まで軍国主義にもならず、節操を保ち得たのは、ひとえに、恩師内村鑑三の教訓によるなどと言っているようで、インターヴューは、当てにならないものだけれど、話半分としても、そのおっちょこちょいは笑うに堪える。
 いったい、この作家は特別に尊敬せられているようだが、何故、そのように尊敬せられているのか、私には全然、理解出来ない。どんな仕事をして来たのだろう。ただ、大きい活字の本をこさえているようにだけしか思われない。「万暦赤絵」とかいうものも読んだけれど、阿呆らしいものであった。いい気なものだと思った。自分がおならひとつしたことを書いても、それが大きい活字で組まれて、読者はそれを読み、襟を正すというナンセンスと少しも違わない。作家もどうかしているけれども、読者もどうかしている。
 所詮は、ひさしを借りて母屋にあぐらをかいた狐である。何もない。ここに、あの作家の選集でもあると、いちいち指摘出来るのだろうが、へんなもので、いま、女房と二人で本箱の隅から隅まで探しても一冊もなかった。縁がないのだろうと私は言った。夜更(よふ)けていたけれども、それから知人の家に行き、何でもいいから志賀直哉のものを借してくれと言い、「早春」と「暗夜行路」と、それから「灰色の月」の掲載誌とを借りることが出来た。
 「暗夜行路」
 大袈裟な題をつけたものだ。彼は、よくひとの作品を、ハッタリだの何だのと言っているようだが、自分のハッタリを知るがよい。その作品が、殆んどハッタリである。詰将棋とはそれを言うのである。いったい、この作品の何処に暗夜があるのか。ただ、自己肯定のすさまじさだけである。
 何処がうまいのだろう。ただ自惚(うぬぼ)れているだけではないか。風邪をひいたり、中耳炎を起したり、それが暗夜か。実に不可解であった。まるでこれは、れいの綴方(つづりかた)教室、少年文学では無かろうか。それがいつのまにやら、ひさしを借りて、母屋に、無学のくせにてれもせず、でんとおさまってけろりとしている。
 しかし私は、こんな志賀直哉などのことを書き、かなりの鬱陶(うっとう)しさを感じている。何故だろうか。彼は所謂(いわゆる)よい家庭人であり、程よい財産もあるようだし、傍に良妻あり、子供は丈夫で父を尊敬しているにちがいないし、自身は風景よろしきところに住み、戦災に遭ったという話も聞かぬから、手織りのいい(つむぎ)なども着ているだろう、おまけに自身が肺病とか何とか不吉な病気も持っていないだろうし、訪問客はみな上品、先生、先生と言って、彼の一言隻句にも感服し、なごやかな空気が一杯で、近頃、太宰という思い上ったやつが、何やら先生に向って言っているようですが、あれはきたならしいやつですから、相手になさらぬように、(笑声)それなのに、その嫌らしい、(直哉の(いわ)く、僕にはどうもいい点が見つからないね)その四十歳の作家が、誇張でなしに、血を吐きながらでも、本流の小説を書こうと努め、その努力が(かえ)ってみなに嫌われ、三人の虚弱の幼児をかかえ、夫婦は心から笑い合ったことがなく、障子の骨も、(ふすま)のシンも、破れ果てている五十円の貸家に住み、戦災を二度も受けたおかげで、もともといい着物も着たい男が、短か過ぎるズボンに下駄ばきの姿で、子供の世話で一杯の女房の代りに、おかずの買物に出るのである。そうして、この志賀直哉などに抗議したおかげで、自分のこれまで附き合っていた先輩友人たちと、全部気まずくなっているのである。それでも、私は言わなければならない。(たぬき)(きつね)のにせものが、私の労作に対して「閉口」したなどと言っていい気持になっておさまっているからだ。
 いったい志賀直哉というひとの作品は、厳しいとか、何とか言われているようだが、それは嘘で、アマイ家庭生活、主人公の柄でもなく甘ったれた我儘、要するに、その容易で、楽しそうな生活が魅力になっているらしい。成金に過ぎないようだけれども、とにかく、お金があって、東京に生れて、東京に育ち、(東京に生れて、東京に育ったということの、そのプライドは、私たちからみると、まるでナンセンスで滑稽(こっけい)に見えるが、彼らが、田舎者(、、、)という時には、どれだけ深い軽蔑(けいべつ)感が含まれているか、おそらくそれは読者諸君の想像以上のものである。)道楽者、いや、少し不良じみて、骨組頑丈、顔が大きく眉が太く、自身で裸になって角力(すもう)をとり、その力の強さがまた自慢らしく、何でも勝ちゃいいんだとうそぶき、「不快に思った」の何のとオールマイティーの如く生意気な口をきいていると、田舎出の貧乏人は、とにかく一応は度胆をぬかれるであろう。彼がおならをするのと、田舎出の小者のおならをするのとは、全然意味がちがうらしいのである。「人による」と彼は、言っている。頭の悪く、感受性の鈍く、ただ、おれが、おれが、で明け暮れして、そうして一番になりたいだけで、(しかも、それは、ひさしを借りて母屋をとる式の卑劣な方法でもって)どだい、目的のためには手段を問わないのは、彼ら腕力家の特徴ではあるが、カンシャクみたいなものを起して、おしっこの出たいのを我慢し、中腰になって、彼は、くしゃくしゃと原稿を書き飛ばし、そうして、身辺のものに清書させる。それが、彼の文章のスタイルに歴然と現われている。残忍な作家である。何度でも繰返して言いたい。彼は、古くさく、乱暴な作家である。古くさい文学観をもって、彼は、一寸も身動きしようとしない。頑固。彼は、それを美徳だと思っているらしい。それは、狡猾(こうかつ)である。あわよくば、と思っているに過ぎない。いろいろ打算もあることだろう。それだから、嫌になるのだ。倒さなければならないと思うのだ。頑固とかいう親爺が、ひとりいると、その家族たちは、みな不幸の溜息(ためいき)をもらしているものだ。気取りを止めよ。私のことを「いやなポーズがあって、どうもいい点が見つからないね」とか言っていたが、それは、おまえの、もはや石膏(せっこう)のギブスみたいに固定している馬鹿なポーズのせいなのだ。
 も少し弱くなれ。文学者ならば弱くなれ。柔軟になれ。おまえの流儀以外のものを、いや、その苦しさを(わか)るように努力せよ。どうしても、解らぬならば、だまっていろ。むやみに座談会なんかに出て、恥をさらすな。無学のくせに、カンだの何だの頼りにもクソにもならないものだけに、すがって、十年一日(ごと)く、ひとの蔭口(かげぐち)をきいて、笑って、いい気になっているようなやつらは、私のほうでも「閉口」である。勝つために、実に卑劣な手段を用いる。そうして、俗世に(おい)て、「あれはいいひとだ、潔癖な立派なひとである」などと言われることに成功している。(ほと)んど、悪人である。
 君たちの得たものは、(所謂(いわゆる)文壇生活何年か知らぬが、)世間的信頼だけである。志賀直哉を愛読しています、と言えばそれは、おとなしく、よい趣味人の証拠ということになっているらしいが、恥しくないか。その作家の生前に於て、「良風俗」とマッチする作家とは、どんな種類の作家か知っているだろう。
 君は、代議士にでも出ればよかった。その厚顔、自己肯定、代議士などにうってつけである。君は、あの「シンガポール陥落」の駄文(あの駄文をさえ頬かむりして、ごまかそうとしているらしいのだから、おそるべき良心家である。)その中で、木に竹を継いだように、(すこぶ)る唐突に、「謙譲」なんていう言葉を用いていたが、それこそ君に一番欠けている徳である。君の恰好(かっこう)の悪い頭に充満しているものは、ただ、思い上りだけだ。この「文藝」という座談会の記事を一読するに、君は若いものたちの前で甚だいい気になり、やに下り、また若いものたちも、妙なことばかり言って()びているが、しかし私は若いものの悪口は言わぬつもりだ。私に何か言われるということは、そのひとたちの必死の行路を無益に困惑させるだけのことだという事を知っているからだ。「こっちは太宰の年上だからね」という君の言葉は、年上だから悪口を言う権利があるというような意味に聞きとれるけれども、私の場合、それは逆で、「こっちが年上だからね」若いひとの悪口は遠慮したいのである。なおまた、その座談会の記事の中に、「どうも、評判のいいひとの悪口を言うことになって困るんだけど」という箇所があって、何という(みにく)(いや)しいひとだろうと思った。このひとは、案外、「評判」というものに敏感なのではあるまいか。それならば、こうでも言ったほうがいいだろう。「この頃評判がいいそうだから、苦言を呈して、みたいんだけど」少くともこのほうに愛情がある。彼の言葉は、ただ、ひねこびた虚勢だけで、何の愛情もない。見たまえ、自分で自分の「邦子」やら「児を盗む話」やらを、少しも照れずに自慢し、その長所、美点を講釈している。そのもうろくぶりには、噴き出すほかはない。作家も、こうなっては、もうダメである。
「こしらえ物」「こしらえ物」とさかんに言っているようだが、それこそ二十年一日の如く、カビの生えている文学論である。こしらえ物のほうが、日常生活の日記みたいな小説よりも、どれくらい骨が折れるものか、そうしてその割に所謂批評家たちの気にいられぬということは、君も「クローディアスの日記」などで思い知っている筈だ。そうして、骨おしみの横着もので、つまり、自身の日常生活に自惚れているやつだけが、例の日記みたいなものを書くのである。それでは読者にすまぬと、所謂、虚構を案出する、そこにこそ作家の真の苦しみというものがあるのではなかろうか。所詮、君たちは、なまけもので、そうして狡猾にごまかしているだけなのである。だから、生命がけでものを書く作家の悪口を言い、それこそ、首くくりの足を引くようなことをやらかすのである。いつでもそうであるが、私を無意味に苦しめているのは、君たちだけなのである。
 君について、うんざりしていることは、もう一つある。それは芥川の苦悩がまるで解っていないことである。
 日蔭者の苦悶(くもん)
 弱さ。
 聖書。
 生活の恐怖。
 敗者の祈り。
 君たちには何も解らず、それの解らぬ自分を、自慢にさえしているようだ。そんな芸術家があるだろうか。知っているものは世知だけで、思想もなにもチンプンカンプン。()いた口がふさがらぬとはこのことである。ただ、ひとの物腰だけで、ひとを判断しようとしている。下品とはそのことである。君の文学には、どだい、何の伝統もない。チェホフ? 冗談はやめてくれ。何にも読んでやしないじゃないか。本を読まないということは、そのひとが孤独でないという証拠である。隠者の装いをしていながら、周囲がつねに(にぎ)やかでなかったならば、さいわいである。その文学は、伝統を打ち破ったとも思われず、つまり、子供の読物を、いい年をして大えばりで書いて、調子に乗って来たひとのようにさえ思われる。しかし、アンデルセンの「あひるの子」ほどの「天才の作品」も、一つもないようだ。そうして、ただ、えばるのである。腕力の強いガキ大将、お山の大将、乃木大将。
 貴族がどうのこうのと言っていたが、(貴族というと、いやにみなイキリ立つのが不可解)或る新聞の座談会で、宮さまが、「斜陽を愛読している、身につまされるから」とおっしゃっていた。それで、いいじゃないか。おまえたち成金の(やっこ)の知るところでない。ヤキモチ。いいとしをして、恥かしいね。太宰などなさいますの? 売り言葉に買い言葉、いくらでも書くつもり。

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志賀直哉太宰治

 【了】

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【参考文献】
野平健一『矢来町半世紀』(新潮社、1992年)
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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