6月14日の太宰治。
1948年(昭和23年)6月14日。
太宰治 38歳。
遺書を発見。美知子、仕事部屋先の鶴巻幸之助、出版雑誌社、友人宛などがあり、三人の子供たちへの
太宰治の命日
この前日、1948年(昭和23年)6月13日の午後11時半から、翌14日の午前4時頃までの間に、グレーのズボンに白いワイシャツ、下駄履きで、愛人の山崎富栄とともに、歩いて70歩ほどの距離にある玉川上水に
太宰の命日は、6月19日と思われがちですが、これは、太宰の誕生日であり、6月13日未明に玉川上水に心中した、太宰の遺体が発見された日です。太宰の遺体が発見されたのは、奇しくも太宰39歳の誕生日でした。
太宰の葬儀が終わった後、友人知己の間で、毎年一度、太宰を
それでは、太宰の命日とは、いつなのか。
津島修治(太宰の本名)の戸籍簿を見ると、「昭和23年6月14日午前零時死亡」と書かれてあり、この6月14日が太宰の命日になります。妻の津島美知子も、太宰との日々を回想した『回想の太宰治』の中で、「14日に死亡」と書いています。
1948年(昭和23年)6月14日。
富栄の下宿先の大家・野川アヤノは、午後になっても富栄が階下に降りてこないのを不審に思い、下の台所から声を掛けても、物音ひとつありません。階段を上がり、
■野川アヤノ(中央)
少し
室内はきちんと整理され、灰皿には空になったビタミン注射薬のアンプルが山のように積まれ、前の晩に炊いたご飯がほとんどそのまま残っていたといいます。
2つある雨戸も固く閉じられ、
■入水直後の富栄の部屋 撮影:毎日新聞・石井周治。
右隅の仏壇の中には、大小2本のワラビかゼンマイの芽が地上からひょろひょろと伸びた、濃淡一色の1枚の色紙に描かれた墨画が飾られていました。2本のうち、1本は大きく描かれ太宰に見え、1本は小さく描かれ富栄のようにも見えます。その横には、同じく墨画で、一輪花をつけたスミレが描かれ、色紙には「治」と「堅」のサインがあります。
「堅」のサインは、朝日新聞連載『グッド・バイ』の挿絵画家・吉岡堅二のもの。吉岡の書いた色紙に、太宰が2つの影を書き加えたものでした。
仏壇の下に置かれた小机の上には、
池水は濁りににごり
藤波の影もうつらず
雨降りしきる
という、明治期の歌人で小説家・
部屋の中央には、和服やその他の品が積み重ねてありました。
それぞれ返品先を記して整理されてありましたが、その上に「千草」の鶴巻夫妻に宛てた、太宰と富栄の連名になっている、次の遺書が置かれていました。
永いあいだ、いろいろと身近く親切にして下さいました。忘れません。おやじにも世話になった。おまえたち夫婦は、商売をはなれて僕たちにつくして下さった。お金のことは石井に 太宰 治
泣いたり笑ったり、みんな御存知のこと、末までおふたりとも御身大切に、あとのこと御ねがいいたします。誰もおねがい申し上げるかたがございません。あちらこちらから、いろいろなおひとが、みえると思いますが、いつものように、おとりなし下さいまし。
このあいだ、拝借しました着物、まだ水洗いもしてございませんの。おゆるし下さいまし、着物と共にありますお薬は、胸の病いによいもので、石井さんから太宰さんがお求めになりましたもの、御使用下さいませ。田舎から父母が上京いたしましたら、どうぞ、よろしくおはなし下さいませ。勝手な願いごと、おゆるし下さいませ。
昭和二十三年六月十三日 富 栄追 伸
お部屋に重要なもの、置いてございます。おじさま、奥様、お開けになって、野川さんと御相談下さいまして、暫 くのあいだおあずかり下さいまし。それから、父と、姉に、それから、お友達に(ウナ電)お知らせ下さいまし。
父 滋賀県神崎郡八日市町二四四 山崎晴弘
姉 神奈川県鎌倉市長谷通り二五六
マ・ソアール美容院 山崎つた
友達
本郷区森川町九〇 加藤郁子
淀橋区戸塚町一ノ四〇四 宮崎晴子
太宰が書いた部分に出てくる「石井」は、筑摩書房編集部員の石井立のこと。
富栄が書いた部分に出てくる「宮崎晴子」は、富栄が「コンテさん」というニックネームで呼んでいた友達でした。
■「千草」の主人・鶴巻幸之助、増田静江夫妻
続いて、六月十三日付の富栄の日記です。
六月十三日
遺書をお書きになり
御一緒に連れていっていただく
みなさん
さようなら
父上様
母上様
御苦労ばかりおかけしました
ごめんなさい
お体御大切に、仲睦まじくおすごし下さいまし
あとのこと、おねがいいたします
前の千草さんと、野川さんにはいろいろお世話ねがいました
御相談下さいまし
静かに、小さく、とむらって下さい
奥様すみません
修治さんは肺結核で左の胸に二度目の水が溜り、このごろでは痛い痛いと仰言 るの、もうだめなのです。
みんなして、いじめ殺すのです。
いつも泣いていました。
豊島先生を一番尊敬して愛しておられました。
野平さん、石井さん、亀島さん、太宰さんのおうちのこと見てあげて下さい。園子ちゃんごめんなさいね。
父上様
前の角の洋裁屋に、黒不二絹一反がいっています。まだなにも手付かずになっていると思いますから返品して下さい。
川向うのマーケット(すみれ)酒店に、去年の八月の月給(未)が約三千円位あります。貰って下さい。
洗面器のこと、駅前の「丸み」に依頼してありますから訪ねて下さい。兄さん
すみません
あと、おねがいいたします
すみません
さらに、「遺書」と題された富栄の文章もありました。
しかし、この「遺書」の日付は、1947年(昭和22年)8月29日。富栄は、この頃から、太宰と心中することを考えていたのでしょうか。
遺 書
私ばかりしあわせな死に方をしてすみません。奥名とすこし長い生活ができて、愛情でもふえてきましたらこんな結果ともならずにすんだかもわかりません。山崎の姓に返ってから死にたいと願っていましたが……、骨は本当は太宰さんのお隣りにでも入れて頂ければ本望なのですけれど、それは余りにも虫のよい願いだと知っております。太宰さんと初めてお目もじしたとき他に二、三人のお友達と御一緒でいらっしゃいましたが、お話を伺っておりますとときに私の心にピンピン触れるものがありました。奥名以上の愛情を感じてしまいました。御家庭を持っていらっしゃるお方で私も考えましたけれど、女として生き女として死にとうございます。あの世へ行ったら太宰さんの御両親様にも御あいさつしてきっと信じて頂くつもりです。愛して愛して治さんを幸せにしてみせます。
せめてもう一、二年生きていようと思ったのですが、妻は夫と共にどこ迄も歩みとうございますもの。ただ御両親のお悲しみと今後が気掛かりです。
最後に紹介するのは、太宰の遺書。
太宰が、妻の津島美知子に宛てて書いた遺書は、わら半紙9枚に書かれ、封筒に入れられていました。遺書は遺族の意向により、一部非公開となっています。
津島美知様
(略)
子供は皆、あまり
出来ないようで
すけど 陽気に
育ててやって下さい
たのみます
ずいぶん御世話に
なりました、小説
を書くのがいやに
なったから死ぬの
です
(略)
いつもお前たち
の事を考え、さ
うしてメソメソ泣
きます、
(略)
みんな いやしい
欲張りばかり
井伏さんは
悪人です
津島修治
美知様
お前を
誰よりも
愛していま
した
「井伏さんは 悪人です」のフレーズが有名な、太宰の遺書。
太宰のこのフレーズの解釈について、2月22日の記事で、太宰を比較的早い時期から評価していた、作家・
私は太宰宅を訪ねた。たぶん奥さんだったと思うが、三鷹駅前の”千草”を教えてくれた。私が千草まで引き返すと、太宰先生が出て来て、”一緒に帰ろう”というので、始めて私は太宰治と会話らしい会話をしたのである。
私は話の糸口を見付けるために、友人の別所直樹 君のことを訊 ねてみた。その時の太宰の答えは、別所君の「郷愁の太宰治」の八二頁にも少々書かれている。もっと詳しく述べると「酒を飲んで乱れる男を僕は嫌いだ」と明らかに別所君を非難し「俺の女房の手なんか握って」という意味のことを言った。この間の事情は「郷愁の太宰治」を読むとやや判るが、これはどうやら北山冬一郎氏と別所君とが混同されているのではないかと考えられる。別所君と私とは竹馬の友であるが、私には別所君が酒で乱れる人間とは考えられない。ただ、少々雷同性があるので、傍の人間と調和させるために、いかにも乱れたような恰好をするのであろう。酒と親しみの薄い私に対する時の別所君は誠に礼儀正しい紳士であり君子人である。従って、万人から愛せられ、かつ尊敬されている別所直樹を太宰治が嫌うはずは絶対にないのである。
■別所直樹(1921~1992) 詩人、評論家。太宰の弟子。三鷹にある、禅林寺の太宰の墓に詣でる別所。愛憎が一つのものである以上、”嫌い”という表現の裏には”好き”という”こころ”が付随しているのであって、太宰先生は別所直樹を、こよなく好きであったがゆえに、ちょっとした気になる行動が”嫌い”という表現となって口から飛び出したものであろう。死の直後発見された反古紙に「井伏さんは悪い人です」とか書かれていたのが、当時問題になったように記憶しているが、完全な善人を理想像とする太宰治にとっては、小悪(それも、全くの不注意による違約のようなもの)といえども見逃すことの出来ない罪悪として眼に映じたものであろう。別所君に限らず誰でもが太宰先生に著書なり品物を贈ると、必ず令状を書かねば気の済まない男、それが太宰という人格であり、多くの弟子を持ったゆえんなのである。
こういう性格なるがゆえに、太宰の周囲には青年男女が集り、中には年輩の人も雑 ったのであって、これがやがては太宰を苦しめて行ったものと思う。
”貰ったら必ず返礼をする”これが太宰の生れ育った環境によって造り出された主義であった。それだけに、始めから交換条件のようにして差し出された贈物に対しては敏感であった。
【了】
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【参考文献】
・『太宰治研究 3』(審美社、1963年)
・長篠康一郎『山崎富栄の生涯』(大光社、1967年)
・山崎富栄 著・長篠康一郎 編纂『愛は死と共に 太宰治との愛の遺稿集』(虎見書房、1968年)
・長篠康一郎 編集兼発行人『探求太宰治 太宰治の人と芸術 第4号』(太宰文学研究会、1976年)
・長篠康一郎『太宰治文学アルバムー女性篇ー』(広論社、1982年)
・『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』(新潮社、1983年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、20008年)
・『人間失格ではない太宰治 爆笑問題 太田 光の11オシ』(新潮社、2009年)
・松本侑子『恋の蛍 山崎富栄と太宰治』(光文社文庫、2012年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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