記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】6月21日

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6月21日の太宰治

  1930年(昭和5年)6月21日。
 太宰治 21歳。

 午前三時十五分、三兄圭治が東京府豊玉郡戸塚町大字諏訪二百二十二番地において逝去した。死因は「肺結核兼尿路結核症」といわれる。享年二十七歳。

三兄・圭治の死

 1930年(昭和5年)6月21日、少年時代の太宰の憧れだった三兄・津島圭治(1903~1930)が、太宰と長兄・文治に見守られながら、27歳の若さで息を引き取りました。

 圭治は、私立東京中学から東京美術学校塑像(そぞう)科(現在の東京藝術大学)へ進学しましたが、病弱だったため、あまり学校には行かず、自宅で彫塑制作のかたわら、山小屋風の喫茶店を造って雇われママに経営させたり、前衛的な絵を描いたり、詩を創作したりして過ごしていました。

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■兄弟たちと 前列左より圭治、文治、英治。後列左より礼治、太宰。

 圭治は、東京の各種同人雑誌を度々実家に送ったため、太宰は早くから新傾向の文学に接する機会を持つことができました。圭治は、同人雑誌「十字街」に夢川利一のペンネームで参加し、表紙絵や挿絵を担当したりもしていました。

 1926年(大正15年)6月、圭治は川端康成の処女作品集『感情装飾』の出版記念会にも出席しており、川端から署名本を送られています。

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 その年の夏に帰省した圭治は、中学4年生だった太宰と相談して、「青んぼ」という兄弟間の小冊子を創刊します。太宰たちの同人雑誌「蜃気楼」「赤んぼ」に見立てたネーミングでした。「青んぼ」発刊にあたっては、当時、金木町長だった長兄・文治が出資しており、太宰に口述筆記させたエッセイ『めし』を寄稿しています。

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■同人雑誌「青んぼ」 2019年(令和元年)6月12日付「東奥日報

 表紙と挿絵は圭治が担当し、後年劇作家として活躍する八木隆一郎や、津軽「N君」こと中村貞次郎も寄稿しています。しかし、同年10月、圭治が上京したため、「青んぼ」は第二号で終わりました。

 太宰が文学に関心を示し、中学時代に作家を志したのは、圭治の影響を多分に受けてのことでしょう。
 芸術家を思わせる美男痩躯(そうく)の圭治は、少年時代の太宰にとっては憧れであり、1930年(昭和5年)に東京帝国大学仏文科に進学した太宰は、圭治の住居の近くに下宿し、圭治と歓談することを楽しみました。しかし、圭治はすでに結核性膀胱カタルに冒されており、病臥(びょうが)していることが多くなっていました。
 圭治の(まかな)い人の連絡を受けて駆け付けた太宰は、末期の圭治に二晩付き添って看病し、電報で呼び寄せた長兄・文治と共に、その臨終に立ち会いました。この時の様子を、太宰は小説兄たちで、次のように書いています。

ケイジ、ケサ四ジ、セイキョセリ。という電文を、田舎の家にあてて頼信紙に書きしたためながら、当時三十三歳の長兄が、何を思ったか、急に手放しで慟哭(どうこく)をはじめたその姿が、いまでも私の痩せひからびた胸をゆすぶります。父に早く死なれた兄弟は、なんぼうお金はあっても、可哀想なものだと思います。

 圭治の危篤の報に駆け付け在京中だった文治の耳に、知人の内報で、太宰が社会主義支持活動を行っているとの情報が入り、この年の11月、太宰は文治から分家除籍されることになりますが、太宰が身内の中で最も信頼していた圭治が生きていれば、義絶されずに済んだ可能性もあります。
 太宰は、前年1929年(昭和4年)1月5日に、弟・礼治も亡くしており、大きな喪失感に包まれたことが想像できます。

 太宰は、圭治の遺作である、小さな菩薩像を、形見として永く愛蔵しました。

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■圭治作の仏像 2018年(平成30年)12月13日付「東奥日報

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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