記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】1月18日

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1月18日の太宰治

  1916年(大正5年)1月18日。
 太宰治 6歳。

 従姉じゅうしリエの夫季四郎すえしろうが、津島歯科医院を開業するため、叔母キヱの一家が北津軽郡五所川原町字蝉ノ羽五十番地にヤマショウ(“正”の上に“ヘ”)の屋号で分家した。叔母の一家、キヱ、季四郎、リエ、テイ、幸子こうことともに五所川原に引越し、小学校入学直前までの二か月余を、叔母の家ですごした。

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■津島家系譜 山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)より。

叔母キヱと「太宰治『思ひ出』の蔵」

 津島キヱは、太宰の母・夕子たねの妹で、太宰の叔母にあたります。

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■太宰1歳数か月の頃 前列右から叔母・キヱ、太宰、母・夕子たね。後ろは三上ヤエ先生。

 キヱは、17歳の時に義兄・源右衛門(太宰の父)の実弟・友三郎を婿養子として迎えましたが、友三郎の酒乱や女性交遊が原因で、二児をもうけた後に離婚。その後、青森市の豊田家から実直な常吉を迎えましたが、二児をもうけた後に病没してしまい、28歳で未亡人となり、当時新築された津島邸(現在の斜陽館)に戻って来ていました。
 太宰は、生まれて間もなく乳母に預けられましたが、その乳母が再婚することになったため、キヱの下に移され、4人の娘と一緒に「十畳ひと間の部屋」で育てられました。
 キヱは、病気がちだった姉の夕子たねと異なり健康的で、多少勝気な性格の人で、姉に代わって津島家の主婦の役割をしていました。世話好きで、特に太宰を可愛がり、4人の娘たちも従弟じゅうていの太宰を実の弟のように世話を焼いたため、太宰は小さい頃、自分がキヱの長男だと思っていたと『思い出』などに書いています。
 不眠症だった太宰に、キヱは添い寝して、津軽に伝わる昔話を語って寝かせつけたそうです。その後、子守の越野たけから文字を教わっていますが、幼少時代にこの2人から教わったものが、後に太宰文学のいしずえとなります。キヱが分家して五所川原に転居した際、太宰もキヱに着いて行き、たけも女中として同伴しています。

 キヱは、太宰が青森中学校に入学した際、亡夫・常吉の実家である豊田家に、太宰の世話について熱心に頼み込んだり、太宰が長兄・文治と義絶中に里帰りした際、実家に泊まる事ができない太宰を五所川原の家に迎えるなど、面倒をみています。

 現在、キヱの家があった場所は津島歯科医院となり、隣にある蔵は「太宰治『思ひ出』の蔵」として公開。当時の外観を残しています。この蔵は、2011年(平成23年)に地区画整理事業のため一度解体されましたが、その時に木材を保存し、2014年(平成26年)8月に再築されたものです。

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 太宰治『思ひ出』の蔵」は、実家に帰省中の2020年1月3日に訪問。noteに記事を投稿しています!

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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