記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】6月30日

f:id:shige97:20191205224501j:image

6月30日の太宰治

  1941年(昭和16年)6月30日。
 太宰治 32歳。

 鶯谷の料亭「志保原」において、佐藤春夫夫妻の媒酌で、山岸外史と佐藤やすとの結婚披露宴があり、尽力した。

山岸外史の「再婚記」

 6月11日の記事で、太宰が親友・山岸外史に再婚をすすめていることを書きました。今日、紹介するのは、その顛末(てんまつ)です。

  1941年(昭和16年)6月30日。山岸は、3年ほど前から交際があった、仙台の教育者・佐藤栄蔵の次女・恭子(やすこ)との結婚披露宴を催し、太宰はこれに尽力します。
 媒酌は、佐藤春夫夫妻。会場は、鶯谷の料亭「志保原」でした。

f:id:shige97:20200622221830j:image
■山岸と恭子の結婚披露宴 前列左より、佐藤春夫井伏鱒二、山岸、恭子、井伏節代、太宰。後列左より、佐藤千代、2人おいて亀井勝一郎

 山岸の再婚成立の過程について、池内規行『人間山岸外史』から引用します。

 昭和十六年六月、太宰治の熱心なすすめと世話で、山岸外史は仙台の教育者佐藤栄蔵の次女やす(恭子(やすこ))と再婚した。明治三十九年十二月三十日生まれの恭子は、プロテスタントのミッションスクール宮城学院の英文科を出て、同地でインターンの教職を経験したのち上京して東京都庁に奉職、文京区内にアパート住まいをしており、三年ほどまえから外史と交際があった。昭和十四年一月に再婚し、六月七日に長女が生まれたばかりの太宰は、三鷹に順調な家庭生活を営んでおり、その彼が、ふたりの中途半端な関係や、三人の子供をかかえた外史の不安定な生活を心配して、しきりに再婚をすすめ、仲人の世話から式場の世話まで、東奔西走してすっかりお膳立てをこしらえてくれたものであった。

 

f:id:shige97:20200531215106j:plain

 

 結婚式は六月三十日、鶯谷の志保原という料亭であげられた。媒酌人として佐藤春夫夫妻に井伏鱒二夫妻、友人総代で亀井勝一郎太宰治、それに親戚代表として外史の叔母ふたりが出席し、総勢十人というささやかな、けれども豪華な顔ぶれの式であった。

  「仲人の世話から式場の世話まで、東奔西走してすっかりお膳立て」された状態で催された、山岸の結婚披露宴。
 さて、続けて、当時の様子を山岸自身の回想『人間太宰治から引用します。

 考えてみると、太宰は、ずいぶんぼくのことを大切にしてくれたと思う。いまさらのようだが、それに感動することがある。どの友人に対しても親切な太宰ではあったが、ぼくに対しては、ことに、ひとかたならない友情をみせてくれたように思う。(てれないで、そう書くのがほんとだと思っている。そして、てれてはイケナイのである。)
 ぼくが再婚したときにも、太宰はなみなみでない友情をみせてくれた。奔走してくれたのである。野放図きわまるぼくではあったが、これにはほんとに感謝した。
  (中略)
 太宰は、太宰自身の仲人でもあった井伏鱒二夫妻を媒酌人の候補にあげた。太宰はすっかり計画をたてていたのである。おそらく、自分の鎌滝時代の生活から、御坂峠、甲府時代、お美知さんとの結婚という自分の過去の体験から割りだして、ぼくの生活の安定を文字どおりに心配してくれたのである。
「乾盃だ。ありがとう。山岸君。これで恩返しができる」
 太宰は、そんな妙なことまでいった。そして、太宰はその翌日から奔走しはじめてくれたのである。井伏さんが「山岸君じゃ重い。佐藤さんを動員する必要がある」といったということで、(すべて太宰の言葉である。)佐藤さん御夫妻まで動かしてくれたのである。
  (中略)
 井伏さんに宛てた太宰の手紙があるから、ここにそれも載せてみると、六月二十五日付で、

 拝啓 過日は、失礼申し上げました。またその折は、うなぎをどっさりいただき、頭もキモもみんなおいしくいただきました。本当におそれいりました。
 さて、山岸君の結婚に就いては、いろいろ御心配をおかけ致し、私からも心からの御礼申し上げます。昨日、山岸君の家へ行き相談いたしました。旅行も、山岸君がひとりならば大いによろこんで参加したいそうですが、どうも婚約者と一緒では、窮屈なやら、恥ずかしいやらで、とても、つらいのだそうです。(筆者註 これはたしかに太宰の脚色であって、太宰が色彩をつけすぎているところである。太宰が死んでから書簡集でこの手紙を発見して、ぼくは、太宰はこんな書き方をするのかと思ったくらいである。太宰も手腕家であった。不器用なぼくにはできない芸当だと思った。)それで、近々、山岸君が婚約者を連れて、清水町のお宅へ御挨拶にあがるということになりました。なかなかいい婚約者であるから、どうか、よくみてやって下さい。それで、なこうどは井伏様御夫妻に、ぜひともお願いしたいという事であります。(註 拘泥(こだ)わる訳ではないが、ぼくも太宰に任せた以上、太宰の設定した軌道に乗って動いたのである。)かならず生涯のよい道づれになって、うまく行くと信じられますので、先生も、その点は、一切御心配なく、どうか御快諾下さいまし。二十八日頃、山岸君がそのひとを連れて参上する筈でございますから、とにかく、その人をよく見てやって下さい。かならずや、御納得される事と存じます。としは三十一歳の由でございます。(註 家人ヤス子の説によると、今日の計算法ならば二十九歳になるそうである。)仙台の学校の先生の長女で、その先生は、最近なくなられ、なくなる以前に山岸君と逢って、「娘の事は、よろしくたのむ」という事になっていたのです。臨終の時も、山岸君が仙台まで、まいりました。ちょうど私たちが甲府の東洋館にいた頃の事でありました。あの時、山岸君が甲府に来ると言って、急に都合が出来て来られなくなりましたでしょう?(註 太宰の結婚式の日ではなかったかと思う。)あの時、お父さんがなくなったのです。母堂は、ずっと前になくなって、いまは、その婚約者は、みなし子であります。それで、山岸君が過日、仙台へまいりました時、仙台の親戚の人たちに、みんな披露はすんだのだそうです。それで結婚式の時には、仙台のほうの人は、参列せず、ただ、山岸君の叔父の銀行家夫妻だけ出席して、あとは、井伏様御夫妻と、亀井君と、佐藤さんと、私だけにして、会場も、いつか佐藤さんに御馳走になった上野の志保原あたりで、午後五時頃から、充分にくつろいで、酒を飲もうということになりました。

 なかなか長文の手紙で、まだあとがあるのだが、この辺で割愛する。

 

f:id:shige97:20200626075242j:image

 

 太宰は、とにかく懸命になって奔走してくれた。ぼくの知っているきわめて数のすくない先輩たちに丁重且つ巧妙、且つ誠実に動員をかけてくれた。あまり大仰になることを恐れたぼくであったが、「眼をつぶっていてくれ。眼をつぶっていてくれ」という太宰のいうとおりに、ぼくはその誘導に従った。いまさら結婚式でもあるまいと思っていたぼくだし、(三人も子供のある男なら誰でもそう考えると思うが、)そのうえ、野合・内縁関係の方に悦びのあったぼくだから、たしかに太宰のいうとおりに眼をつぶって歩いた気味がある。どこかには、カナシミもあったし、どこかにはサビシサもあったし、どこかには抑圧されるプライドも感じていたのだが、まあ、こんなことだろうという解釈もできて、一から十まで太宰のいうとおりになったのである。太宰もそういうぼくをよく知っていて、「任せたといった以上は、君、ぼくの面子(メンツ)もたててもらいます」とぼくを脅迫し、「よろしい」という気持で、ぼくもひと言も反駁しなかった。
「形が大切なんだ。形式とは形のことなんだ」
 と太宰はしきりにいった。形式ぎらいのぼくだっただけに、そこにかえって弱点もあったのかも知れない。太宰はそれをやはりてれ(、、)臭さだと考えていた。「てれるな。てれるな」太宰はそれも何回かいった。
 あとから考えてみると、この言葉のすべては、井伏さんが太宰の結婚のときにいった言葉で、その言葉をぼくに正直に伝えたのではないかと思われる節もあったが、ぼくは(まないた)のうえの鯉になっていた。むろん、後悔するものはなにもなかった。太宰はそれほどお熱心で誠実だった。ぼくは、太宰の愛情に敗北したといってもいいかも知れない。
 やがて、ぼくとヤス子とは井伏さんのお宅に顔みせに参上ということになった。二十九歳の花嫁と、三十八歳で三人の子持の花婿では、媒酌人の井伏さんにしたところで微笑ひとつ浮ばず、言葉に窮したのにちがいない。顔をあわせている以上、苦が笑いするわけにもゆかず、慰めるわけにも、今後を激励するわけにもゆかず、体験談でもまずいし、太宰もここには大きな誤算があったと思うのである。井伏さんは、そのせいか、庭ばかりみながらやたらに蜜柑の話ばかりしていたのである。正月のお供えと伊勢(えび)の関係についても熱中されたようである。

 

f:id:shige97:20200627210542j:image
■山岸と3人の子供

 

 それから四日目に、鶯谷というところの「志保原」という料亭で、それこそ文字どおりに形ばかりの結婚式が挙げられた。
  (中略)
 その日、媒酌人として佐藤さん御夫妻に、井伏さん御夫妻が出席して下さった。今日、考えてみると、太宰はたいへんな栄誉をぼくにさずけてくれたわけであった、ウヌボレ男のぼくは、今日ほどそれに気づいていない節もあった。太宰はたしかに誠実なだけではなく、ほんとにぼくの未来まで大切にしてくれたのである。(批評家のぼくは、極端な世間嫌いだったが、作家太宰は世間にも聡明だったのかも知れない。)
 友人総代で、亀井君と太宰。ぼくの親戚の代表として叔母二人が出席してくれた。ぼくと花嫁までいれて十人というささやかな式であったが、むろん、ぼくは大いに満足していた。太宰はその式のために、羽織と袴まで新調したそうであった。(ヤス子は女だけあってそれを知っていた。)太宰はその羽織袴でほんとに番頭になったように、階上階下をのぼり下りしてくれて、会計その他、万端の面倒をみてくれたのである。
「おれも手伝いたいね」
 ぼくが正面の座席からいうと、
「君は、今日は、花婿なのだからそこに坐っていてくれなければ困るのだ。動いては困ります」といわれ、ぼくは仕方なく坐っていることにした。その会話を小耳にはさんだひとりの叔母に、ぼくはかなりオッチョコチョイにみられたことを知っている。叔母はそういう眼つきをした。ぼくはしかし、誠意には誠意をもってすべきことを知っていただけなのである。それほど太宰はじつに謙虚に、誠心誠意、ほんとに懸命になって動きまわってくれたのである。太宰の動きをぼくは有難くみていた。「これで君に、恩がえしができる」太宰のこの言葉を、奇妙にとっていた僕の方が、かえって到っていなかったと書きたいのである。
 その夜、佐藤さんから「玲瓏タル美玉ソレ径寸ナルモノ夫妻之ヲ守レ」という一筆を頂戴した。批評家ぼくは、多少、勅諭のように思ったものだが、有難く頂いて、今日でもヤス子の財産のひとつになっている。それは画帖の二頁にわたっていた。太宰が準備してくれたいい画帖であった。佐藤さんはつづいて、鶴の絵を描いて下さった。井伏さんからは、おなじく洒脱なる鶴の絵。いいものだった。「大吉祥 鶴鳴九皐」と賛がはいった。太宰は、きわめて薄い色彩で笹を描いて、「春服の色教えてよ揚雲雀」と書いた。絵はさすがに未だしであったが、これも画帖にはいっていい記念になった。批評家亀井君は「唯信」と書き、これは公平にいって、ぼくと同等の無官の大夫であった。こういう場になると、批評家というものは口ほどもなく、まぎれもない馬脚をあらわすものなのである。ぼくもその体験はかさねていた。

 

f:id:shige97:20200628124500j:image
佐藤春夫亀井勝一郎井伏鱒二、太宰、山岸の書いた画帖

 

 ぼくは、いつも狼が羊の皮をかぶっているような男だったから、その純真な正体をあらわすことを怖れ、すでに司会者の太宰に囁いて、「今日は泥酔するつもりだが、それでもよかろうか」と訊いておいた。
「今日はいい。安心して飲んでくれ」
 と太宰に激励されたから、安心して、なんとか既成の日本的結婚式の形をやぶろうと努力した。てれ(、、)と窮屈さと野人性と自由欲とはおなじものなのだろうか。人間はいつでも解放されていていいものではないが、しかし、ぼくはソビエットやロシヤの農村の無礼講の結婚式など好きであった。泥酔だけはソビエット風だったのである。そのため日本式の叔母二人を顰蹙(ひんしゅく)させたはずだが、すくなくともこの泥酔は原始民の結婚式の古風に則った泥酔ではあったはずなのである。しかし、この程度にはその日のことを記憶しているくらい、ぼくはなにかの<意識>を捨てることができず、たぶんなにかのサビシサにやりきれなかったのである。

 太宰にさえ「大丈夫か。大丈夫か」と三回も耳打ちされたくらいである。あとになってアマリニヒドスギタと、花嫁に泣かれたくらいだが、女が美しいものを愛しているのに、ぼくは醜悪をきわめたと思う。まさしく「美女と野獣」であった。
 やがて、宴がはてると、仲人方にお帰りを願ったあとで「太宰。オーバー・ザ・リバーにゆこう」とまでいって、じつに愚かに野獣の正体をあらわし、太宰と亀井君から、絶叫された。
「今夜は駄目だ。今夜は駄目だ」
 ハイヤーに押しこまれたことまでよく憶えている。路上の格闘に似ていたが、しかし、そういわれると、案外、すなおに言うことを聞いて自動車に乗ったのである。どんなに泥酔していても意識はあった。その限界をこえなかったのは、太宰たちの友情のためだと思う。オーバー・ザ・リバーにいったらそのあとはいっそうサビシサの果てなん国を探したのにちがいなかった。この夜、ぼくがなにに悲劇を感じていたのか、複雑な極限の感情があったようである。
 尤も、この夜、佐藤さんから戴いた別の句に「丹頂ののどをやぶりて叫びけりとぞ」というのがあった。これはあとになってからだが、さすがに詩人は、なにもの(、、、、)かを洞察しているものだと思って感に堪えたものである。「丹頂が、あの国で、のどをやぶりながら」「叫んでいた」ことにはまちがいなかったようである。ことによると、志保原亭から遠くはなかった上野の森の動物園の檻のなかで、夜の丹頂鶴が天空にむかって、声たかく叫んでいたのかも知れない。人間は時々刻々、ハカナイものであった。

f:id:shige97:20200627210834j:image

 【了】

********************
【参考文献】
・『写真集太宰治の生涯』(毎日新聞社、1968年)
・山岸外史『人間太宰治』(ちくま文庫、1989年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・池内規行『人間山岸外史』(水声社、2012年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

【今日は何の日?
 "太宰カレンダー"はこちら!】

太宰治、全155作品はこちら!】