記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】7月7日

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7月7日の太宰治

  1945年(昭和20年)7月7日。
 太宰治 36歳。

 明け方、愛子が久保寺家でもらってきたおにぎりを、焼け跡で受け取った。

太宰、「甲府空襲」に遭う

 1945年(昭和20年)6月末にお伽草紙全4篇200枚の原稿を完成させた直後の出来事です。

 1945年(昭和20年)7月6日の午後11時23分、空襲警報が発令。同午後11時47分に、グアムのマリアナ基地から飛び立った131機のアメリカ空軍機B29型重爆撃機甲府上空に達し、市街北方の塚原地区と東北の愛宕山付近とにANーМ46照明爆弾47発を投下。太宰の妻・津島美知子は、「燈火管制のくらやみがにわかに、真夏のま昼どきのように明るくなった」と回想しています。続いて、B29から、約10,400発、970トン余りの焼夷弾が市街一円に投下されました。
 美知子の実家がある水門町一帯に焼夷弾が投下、絨毯爆撃が開始されたのは、「遅れて発令された空襲警報のサイレンが鳴り始めた同じ時分」の午後11時54分頃だったと、美知子は回想します。B29が、最後の投弾を済ませ、甲府市街の上空から姿を消したのは、翌7月7日の午前1時48分。午前2時20分頃に空襲警報は解除されました。
 空襲当日の天候は晴れ、空襲前の気温は22度でした。

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■空襲後の甲府市街地 焼け残ったビルは、松林軒デパート(甲府会館)。

 このB29の甲府への爆撃を甲府空襲」といい、空襲を受けた日付から「たなばた空襲」とも呼ばれます。甲府盆地は、南太平洋から富士山を目標に到達するアメリカ軍機の飛来ルートだったため、頻繁に上空を通過するアメリカ軍機と空襲警報に、人々はすっかり慣れ切っていました。甲府には軍事工場や飛行場がなく、東京から疎開してくる人も多く、甲府は安全なところだという共通認識が出来上がっていました。
 当時、甲府空襲に参加したB29搭乗員たちは、

「私は1945年7月6日のミッションに参加しました。しかし、あの夜自分たちには特に重大なことは何もおきなかったと思います」

「正直にいって、その日のことは特に覚えていないのです。夜の空襲はどれもほとんど違いは無いのです」

「地方都市の爆撃は”3日に1度の牛乳配達のような日常的なもの”だった」

と証言したそうです。
 甲府空襲は、長期化する戦争の中で、日本の軍事上重要な都市には爆撃を加えて被害を与え、すでに大きな目標がなくなり、明確な目的や意思がないまま、東京に近く、それなりの規模があるという理由で行われたものでした。
  この甲府空襲により、市街地の約74%が焼き尽くされました。負傷者は1,239名、被害戸数18,094戸、死者は1,127名とされています。


 太宰が疎開していた美知子の水門町の実家も全焼。太宰と美知子が新婚時代に住んだ、御崎町56番地の借家もこの時に焼失しています。

 太宰は、お伽草紙の原稿、預かっていた原稿、創作手帖、万年筆など机辺のもの一切を、5歳になる長女・津島園子を背負って、朝日国民学校に避難しました。
 その日、美知子の妹・石原愛子は、1人で布団をかぶり、7キロの夜道を千代田村の久保寺家に助けを求めに行きました。この久保寺家は、太宰が「荷物疎開」をさせてもらっていた家で、美知子の祖父の姉の嫁ぎ先でした。

 久保寺家の長女・福子は、母・りゆうに愛子が、「おばちゃん、全部焼けちゃって何もないさ」と、泣きながら話してるのを見たといいます。

 7月7日の明け方。太宰は、愛子が久保寺家でもらって来たおにぎりを、焼け跡で受け取りました。太宰が美知子と結婚する際、太宰の嫁探しを手伝った、甲府の交通網を担っている御岳自動車社長・斉藤文二郎の次女・佐和子は、朝日国民学校の正面玄関の東の橋で、リヤカーを引く太宰と美知子に会いました。リヤカーには、荷物と子供を乗せており、「これから連隊の北の知り合いのところに行く」と話していたそうです。太宰は、2日ほど愛子の知人宅に泊めてもらいました。

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■太宰と石原家の人びと 前列左から、太宰、義母・石原くら、中列左から、義妹・愛子、美知子、義姉・富美子、後列は義弟・昭。1939年(昭和14年)正月、甲府市水門町の石原家の玄関横で撮影。

 その後、水門町の焼け跡で、石原家の人々の安否を気遣って見に来た、山梨高等工業専門学校(現在の山梨大学)教授・大内勇と出会い、大内の勧めで、甲府市柳町6番地の大内勇方に避難。太宰は、白いシャツにカーキ色の作業ズボン姿で、園子の手を引いていました。太宰は、金木に疎開するまでの約20日間を大内家で過ごします。大内は以前、水門町に住んでいて、新柳町に転居した後も、石原家と親交が続いていました。美知子の母・石原くらと大内の妻・かねとは、互いに県外出身者で親しかったそうです。
 大内家は、八畳三間、六畳一間、玄関四畳半、台所、風呂がありましたが、太宰一家は、八畳二間を使用しました。

 愛子は、太宰と一緒に「水門町の焼け跡の片付けに行っても」知らぬ間に消えて「夜の十時ごろ酒を飲んで帰ってきた」、「夕飯の時間に帰ってこない」太宰を、美知子は「食べずに帰りを待っていた」と回想しています。一面焼け野原という混乱した町で、「いったいどこで飲んでいたのか」と周辺の人は不思議に思ったといいます。大内家の娘・和子は、「酒を飲みに行くときなどいつも、唐草模様の大きな木綿の風呂敷に、どっさり何やら包んで持ち歩いていた。書き上げた原稿用紙のようだった」といいます。
 万が一、再び空襲に見舞われても原稿が焼失しないよう、肌身離さず持ち歩いていたのでしょうか。太宰は、大内家の東側の八畳間にちゃぶ台を出して机代わりにし、原稿の執筆を続けていました。
 太宰は、1946年(昭和21年)11月に発表した小説薄明に、甲府空襲や大内家に滞在した時のことを書いています。

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「甲府空襲」(甲府市
・HP「戦後72年 なぜ標的に? “甲府空襲” 語り継ぐ 」(NHK、MIRAIMAGAGINE)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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