1月19日の太宰治。
1933年(昭和8年)1月19日。
太宰治 23歳。
太宰と今官一
太宰は金木町で生まれ、今は弘前市で生まれました。同窓で机を並べるような直接的な交流はありませんでしたが、1927年(昭和2年)に太宰と初対面し、翌年太宰が全額自費で出版した「細胞文藝」(当時の筆名・辻島衆二、編集人・津島修治)や、翌々年に「弘前高校新聞」五号に発表された『
今は、『善蔵を思う』に「
夕方、久し振りで今さんも、ステッキを振りながらおいで下さったが、主人が不在なので、じつにお気の毒に思った。本当に三鷹のこんな奥まで、わざわざおいで下さるのに、主人が不在なので、またそのままお帰りにならなければならないのだ。お帰りの途々、どんなに、いやなお気持だろう。それを思えば、私まで暗い気持になるのだ。
■今官一と 今は太宰の文才を早くから見抜いたひとり。デビューの折、古谷綱武らの同人誌「海豹」に「魚服記」を推薦するなど、一貫して太宰のよき理解者だった。1947年(昭和22年)、撮影・伊馬春部。
今は、太宰の勧めで、1942年(昭和17年)12月8日に三鷹の「上連雀字山中南九七ノ二」に転居しました。今は著書『わが友 太宰治』に、
同じ三鷹に住んでいたのですから、他の仲間たちにくらべたら、むしろ、ひんぱんといっていいほど、僕たちは顔をあわせていた
と記しています。
太宰と今の絆の深さを表したエピソードに次のようなものがあります。
1944年(昭和19年)4月10日に召集を受けた今は、「直筆原稿を置いていけ」という太宰の一言で600枚もの原稿を託した。その重量は二貫(7㎏)を超える。太宰は疎開先までこの預り原稿を守り抜き、金木の生家ではなく五所川原の親戚宅に保管されていたという。
今は太宰の死後、矢継ぎ早に太宰についての文章を執筆しており、太宰の死の直後に発表された『人間失格』をセンセーショナルな心中事件と関連付けて語る識者が多い中、著書『想い出す人々』の中で、
太宰の文学を過大にでもなく過少にでもなく、正当に評価しようとする努力がなされなければ、日本の文学観は、一向に、進歩がない
と、太宰の「死」を文学の成立に直接的に結び付ける概念を否定しました。
単純に同郷作家という以上に深い絆で結ばれていた太宰と今ですが、今日取り上げたエピソードは、太宰のデビューを大きく後押しすることになりました。
今が太宰も同人誌仲間に加えたいと推薦したところ、「とにかく作品をひとつ見せてもらった上で決定しよう」ということになり、数日後、今が『魚服記』の原稿を古谷綱武に届けました。
古谷によると『魚服記』の原稿は、「一枚
『魚服記』は、同年3月1日付発行「
今が「ぜひ仲間に加えたい同郷の作家志望の友人」として太宰を推薦したことで、「海豹」は無名の新人・太宰治を文壇へ送り出す大きなきっかけになりました。
【了】
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【参考文献】
・今官一『想い出す人々』(津軽書房、1983年)
・今官一『わが友 太宰治』(津軽書房、1992年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・太宰治文学サロン企画展示『太宰治と今官一 ~郷里から三鷹へ~』展示解説資料(2019年2月14日~6月23日開催)
・弘前市立郷土文学館 編『太宰治生誕110年記念展 ー太宰治と弘前ー(弘前市立郷土文学館、2019年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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