7月13日の太宰治。
1940年(昭和15年)7月13日。
太宰治 31歳。
美知子宛電報を打ち、滞在費を持って迎えに来させた。
太宰、「洪水に急襲」される
太宰は、1940年(昭和15年)7月3日から、「大判の東京明細地図」を携えて、東京在住の10年間を回顧した小説『東京八景』を執筆するために、湯ケ野温泉「福田屋」に滞在していました。この時のエピソードは、7月3日の記事でも紹介しました。
同月8日、太宰は、小山祐士、伊馬春部、井伏鱒二と熱川温泉の熱川館で落ち合い、小山の著書『魚族』(ぐろりあ・そさえて、1940年(昭和15年)6月26日付発行)の出版を祝って、熱川館に一泊しました。
■熱川温泉にて 小山(左から2番目)の『魚族』出版を祝い、太宰は井伏(右)、伊馬(左)らがいる熱川へ駆けつけた。
このときの様子を、鈴木邦彦『文士たちの伊豆漂泊』から引用します。
太宰が「福田屋」で『東京八景』を書き出して間もない七月八日、熱川の「熱川館」に井伏鱒二、亀井勝一郎、伊馬春部、小山祐士らがやってきた。劇作家、小山祐士の『魚族』出版祝いのためである。福田屋で奮闘中の太宰も呼び出されて「熱川館」に一泊。(中略)翌九日は河津に繰り出して鮎釣り、伊馬春部、小山祐士は帰京して、井伏、亀井、太宰が「南豆荘」泊。
この後、太宰だけが再び福田屋に戻り、11日までに『東京八景』を脱稿。
翌12日に妻・津島美知子宛に電報を打ち、滞在費を持って迎えに来させます。美知子によると、「川を渡って、左側の福田屋という宿に着いたのは、もうたそがれの頃で」「窓外は低い夏山、それも中腹までは野菜畑、うす汚い室で太宰は迎えてくれた」といいます。太宰と美知子は、福田屋への支払いを済ませると、そのまま、鮎釣りのために南豆荘に滞在中の井伏と亀井を訪ねます。
ここで再び、『文士たちの伊豆漂泊』から引用します。
その夜は井伏、亀井、太宰の三人は「南豆荘」の前にある「三日月」という飲み屋に繰り出した。夕刻から降り出した大雨は、夜中になっても止む気配もない。帰りのあまり遅い三人を、「南豆荘」のおかみさんが迎えに行ったのが二時ごろのこと。
寝入りばなの三時すぎ、おかみさんは「お母さん、大変よ、水ですよ、水ですよ」よいう娘さんのけたたましい叫び声に飛び起きた。すでにまわりの畳が水びたしである。あわててメリンスの腰巻をたくし上げ、井伏をたたき起こし、離れに寝ていた太宰夫妻のところへ駆けつけた。
昨夜の深酒でぐっすり寝込んでいた太宰も一ぺんに酔いが覚めた様子、床の間に置いてあったためまだ濡れていなかった美知子夫人の着物を抱え、三人で部屋を脱け出した。母屋への渡り廊下は既に脛 までの水、台所から、おわんやら鍋やらがプカプカ流れ出してきていた。稲妻が光る中を、おかみさんは美知子夫人の紅い腰紐で自分の体をゆわえつけ、太宰夫妻にその腰紐をつかまらせて命からがら二階へ駆け上がった。
■「南豆荘」の女将・池田芳子
亀井は蒲団の上にきちんと正座していた。太宰はこわそうな顔ながら、
「大丈夫、大丈夫。お母さん、そんなに心配しなくたって大丈夫ですよ。軒まで水につからなきゃ、家なんて流れないもんなんだから」
としきりにおかみさんをなぐさめてくれた。一番そわそわしていたのは井伏だった。
「あんた、もう十年もここにいるんだから逃げ道はわかるでしょう」と聞かれたが、周りが濁流ではそうしようもない。「死ぬ時は皆一緒ですから、先生あきらめて下さいまし」おかみさんは畳に手をついてそう言った。
それでも、とにかく助けを呼んでみよう、ということになった。井伏、太宰夫妻、同宿していた立大生、南豆荘の人々が二階の屋根に降り、稲光の光る以外明り一つない暗闇に向かって、井伏の「一、二、三!」という音頭で、一斉に「助けてくれーっ」と大合唱を試みた。しかし、豪雨と、雷鳴にかき消され、助けの気配はない。まんじりともせず世を明かした。
明け方になって嘘のように水は引いていった。ともかく「南豆荘」の客は帰ることになったが、男性達は皆「南豆荘」の浴衣のまま帰らなければならなかった。帰りしな、井伏、太宰、亀井の三人が、揃ってがま口のふたを開け、自分たちの旅費分だけ取ると、後は「これで何かのたしにでも」と中身を勘定もせず、おかみさんの手のひらに置いていった。
美知子が、太宰を福田屋に迎えに行ってからの様子を、美知子の『回想の太宰治』からも引用してみます。
十五年の七月初めに、太宰は大判の東京明細図を携えて執筆のために伊豆の湯ケ野へ出発した。
出発のときの約束に従い十二日に私は滞在費を持って迎えに行った。その宿は、伊豆の今井浜から西へ入った、ほんとに温泉が湧いているというだけのとり所のない山の湯宿で、私が二階の座敷に通されたとき太宰は襖をさして、あの梅の枝に鶯が何羽止まっているか数えてごらんと言った。粗末な部屋であった。夕方散歩に出たが蝉が暑苦しく鳴き、宿の裏手は山腹まで畑で、南瓜 の蔓が道にのびていた。
翌日ここを発って谷津温泉の南豆荘に寄った。ここは井伏先生のお馴染の宿で、井伏先生は広々した涼しそうな座敷に滞在中であった。簾 越しに眺められる庭は、縁どりに小松や咲き残りのくちなしとあじさいが植えてあるだけの自然の芝庭であった。
午後散歩に出ると、川沿いの道を釣師姿の亀井勝一郎氏が向こうからやって来た。
この宿で三人落ち合って釣と酒の清遊を楽しむ約束になっていた。そのころはどんよりしてはいたが、降ってはいなかったのに、夜半、洪水に急襲されたのである。夕食後、三人の先生方がしめし合わせて、どこかへ出かけた頃から降り出し、夜ふけて帰ってきたときには土砂降りだった。当時まだ使われていない言葉だが「集中豪雨」に見舞われたのであろう。玄関わきの私どもの部屋に裾端折りで太宰が帰ってきて寝入ってしばらく経ってから私は、奥の調理場と思われる方角からはげしい雨音に交って女の人が何ごとか叫ぶ声で目を覚まし、電灯をつけて縁側に出た。するとほんの二間ほど先から縁側の板の上を音もなく、ねずみのようにするすると、水が這い寄ってくるのが見えた。それから太宰を叩き起こしたのだが、泥酔しての寝入りばななので手間どってやっと起こして、枕もとの乱れ籠の衣類をとり上げると、一番下に入れておいた単 え帯に水がしみていた。もう畳の上まで浸水していたのである。井伏先生の部屋にまわり、先生とご一緒に二階の亀井さんの部屋に避難しようとしたときは、膝近くまで増水していて足もとが危いので、私の絞りの腰紐に順々に摑まって階段を上った。誰かが井伏先生はもう少しでおやすみになったまま蒲団ごとプカプカ流れ出すとこだったと言って、皆笑い出した。そのころはまだ余裕があったのだが、やがて電灯が消えて真の闇の中、篠つく雨の勢は一向衰えず、だんだん恐ろしくなってきた。周囲の状況が全くわからないので、私はこの家が海へ流れ出たらどうしようか、まさかと思っているうちに死ぬ場合もあるのだろうなどと考えていた。
このとき、亀井さんは積み重ねた蒲団の上に端座して、観音経を誦 し、太宰は家内に向かって人間は死に際が大切だと説教していたとか、いろいろ伝説が伝わっている。井伏先生と亀井さんとが、こんな場合には子供のことを考えるね、と話し合って居られてまだ子供のなかった私は、親となればそういうものかと思って聞いていた。大体三氏とも、眼は覚めてはいたものの、酔が残っていて意識ははっきりしていなかったのではなかろうか。ほかの方はともかく、このときのことを、太宰はほとんど記憶していないことを後日知った。
一夜明けて翌日は昨夜の騒ぎが嘘のような好天であるが、南豆荘では階下全部冠水しておかみさんは悲嘆にくれていた。
私たち一行は谷津から三キロほど川上の峯温泉まで歩いて一泊し、バスが復旧するのをまって帰京した。
美知子は、「このときのことを、太宰はほとんど記憶していないことを後日知った」と書いていますが、太宰は同年7月15日付で、次の手紙を書いています。
東京府下三鷹町下連雀一一三より
静岡県賀茂郡下河津村谷津温泉 南豆荘
池田芳子宛
謹啓
このたびの御災難に就いては、、お見舞いの言葉も、ございませぬ。私たち無力にしてなんのお手伝いも出来ず深く恥じいるばかりであります。
きょうまで泊めていただく度毎に何やかやとわがままばかり申し親身も及ばぬお世話になりました。
どうか又、みなさま御元気をお出しなされ、先夜の思い出をみんなで笑いながら話合えるように一日も早く御恢復下さい。なんだか、いやなお天気がつづきます。どうか、皆様くれぐれもおからだにお気をつけなされて、一日一日、御幸福をお取り戻しなされるよう、心からお祈り申して居ります。 敬具
七月十五日 太 宰 治
南豆荘御内様
【了】
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【参考文献】
・鈴木邦彦『文士たちの伊豆漂泊』(静岡新聞社、1998年)
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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