7月15日の太宰治。
1939年(昭和14年)7月15日。
太宰治 30歳。
鰭崎潤が見つけてくれた家を見るために上京し、三鷹に新築中の三軒の貸家の一番奥の家を契約して、家主からの完成の連絡を待つことになった。一番奥を選択したのは、「表通りに沿った家は人通りがうるさく、まん中はおちつかない、奥が一番住心地がよかろう」という理由からであったという。家賃一か月二十四円。
太宰、三鷹の借家を契約
1939年(昭和14年)1月8日、太宰は妻・津島美知子と結婚し、家賃6円50銭の、甲府市御崎町56番地の借家に住んでいました。しかし、友人たちや出版社は東京にあり、東京から少し離れた甲府での執筆作業は不便なところもあったようで、同年5月頃、東京への転居を決意します。
太宰が、東京への移転を切望している様子や、難航する住居捜しの様子については、5月26日と6月4日の記事でも紹介しました。
難航した住居捜しでしたが、いよいよ同年7月15日、契約に至ります。
まずは、太宰が東京への転居を考えるにあたり、物件捜しする際に頼りにしていた鰭崎潤に宛てて、同年7月8日付で書かれたハガキを引用します。
甲府市御崎町五六より
東京府下小金井町新田四六四
鰭崎潤宛
拝啓
暑さがひどくなりました。お元気の御様子で何よりと存じます。おハガキは有難く拝誦いたしました。わざわざ三鷹まで見にいらっしゃった由にて、恐縮です。私どもも、十日すぎごろ、また捜しに上京するつもりで、そのときは、家が未完成でもなんでも、きめてしまおうと存じて居ります。甲府は、もの凄く熱く、このごろは、ぐったりして、仕事もあまりすすみませぬ。貴方も暑気あたり、御用心下さいまし。 不一。
甲府の暑さに、嫌気が差してきたのでしょうか。次回の上京で、「家が未完成でもなんでも、きめてしまおうと存じて居ります」と太宰は言います。
太宰は鰭崎宛のハガキで、「十日すぎごろ、また捜しに上京するつもり」と書いていますが、実際に上京したのは、7月15日。
太宰は上京前日の7月14日付で、親友の山岸外史に宛ててハガキを書いています。
甲府市御崎町五六より
東京市本郷区駒込坂下町一二 椿荘
山岸外史宛
拝啓
昨日おハガキ申しましたが、明日(十五日)三鷹方面に家を捜しにまいることになり、そのほか二、三、用事もたまって居りますので、その日は親戚の家へ一泊し、十六日午後六時半から、高田馬場「たこ福」で(高田馬場駅下車左へ半丁、活動館並び)会費一円五十銭にて、酒井松男氏の出版記念会がある由にて、招待もらいましたが、貴兄も御出席することと思いましたから、私なるべく都合つけて、出るつもりです。そのとき、久しぶりにてお逢いできたら、うれしく思います。
■山岸外史
太宰は、山岸宛のハガキに書いた通り、7月15日に三鷹で新築中の借家を契約。翌7月16日に高田馬場「たこ福」で開催された、酒井松男の出版記念会に出席した後、甲府に帰りました。
甲府へ戻って数日後。7月19日付で、太宰は再び鰭崎に宛てて手紙を書きます。
甲府市御崎町五六より
東京府下小金井町新田四六四
鰭崎潤宛
拝啓
家のことで、種々御心配おかけいたし、相すみませんでした。
三鷹に家を見つけ、八月はじめに移住することになりました。移住したらすぐお知らせいたします。小さい家ですよ。東京へ移住したら、また遊びに来て下さい。
まずは取急ぎお知らせ迄。 草々。
契約した三鷹の借家は、まだ建築途中だったため、家主から完成の連絡を待つことになりました。8月初めには完成の予定とのこと。「移住したらすぐお知らせいたします。小さい家ですよ。東京へ移住したら、また遊びに来て下さい」と、嬉々としてこの手紙を認める太宰の様子が目に浮かびます。
入居後、甲府・金木への疎開期間を除き、7年半の歳月を過ごすことになる、三鷹の借家。契約後の出来事については、また別の記事で紹介します。
【了】
********************
【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************
【今日は何の日?
"太宰カレンダー"はこちら!】
【太宰治、全155作品はこちら!】