7月17日の太宰治。
1945年(昭和20年)7月17日。
太宰治 36歳。
上京。三鷹の家で、亀井勝一郎、田中英光、小山清などと別れの小宴をはった。
「甲府空襲」罹災後の太宰
今日は、7月7日の記事で紹介した「甲府空襲」で罹災したあとの、太宰の足跡を追っていきます。
七月八日
「罹災者の相談に応じる」という貼紙を見て、山梨県庁に行く途中、熱風の吹く焼け跡で、再疎開のため甲府警察署に罹災証明書を貰いに行く、師匠・井伏鱒二に出会いました。県庁の広い部屋には、人の姿が見えなかったそうです。同日午前一時、井伏は、妻子を連れて日下部駅を発って、中央線、山陰線経由で、七月十日午前十時、生家の広島県深安郡加茂村にたどり着きました。
この頃、太宰は、見舞いに駆け付けた弟子・小山清に『お伽草紙』の原稿を託します。小山は、七月十二日に帰京し、翌七月十三日に、筑摩書房に『お伽草紙』の原稿を届けたそうです。
七月十五日
故郷の金木にも、アメリカ軍戦闘爆撃機グラマン4機が飛来し、町の中心部を爆撃し、機銃掃射した。津島家(現在の斜陽館)の赤い大屋根が目標になったが、近くの八幡神社北門と、南台寺本堂とが直撃弾に見舞われました。死者3名、重傷2名、住家焼失5。これを受け、津島家でも、避難小屋作りを始めたそうです。
七月十七、八日頃
甲府から上京。三鷹の家で、友人・亀井勝一郎、弟子・田中英光、小山清などと別れの小宴をはりました。
七月十九日
太宰は、三鷹から甲府に帰ります。炎熱の気候に加えて、「焼トタンをとり片づけるすさまじい音」が鳴り続けていたそうです。
長女・園子、長男・正樹の2人の子供は、駅前の温泉で流行性結膜炎に感染してしまいます。失明のおそれがあるような急性の眼病ではなかったそうですが、「一時両眼が塞がるほどであった」といいます。
その頃、太宰が身を寄せていた山梨高等工業専門学校の教授・大内勇宅を訪ねた村上芳雄によると、長女・園子が部屋の隅に寝ていて、何となく荒涼とした感じだったといいます。太宰が大内方に身を寄せるようになった経緯については、この記事の冒頭にも掲げた、7月7日の記事で紹介しました。
太宰は、甲府での生活に、半ば力尽きた形で、自身の故郷・津軽行きを決意しました。市役所などで種々の手続きをしたのち、妻・津島美知子の妹・石原愛子とともに、大八車を曳いて、千代田村に預けてあった荷物を取りに行きました。
荷物を預けていたのは、石原家の縁戚にあたる久保寺家。同年7月7日に「たなばた空襲」に見舞われるまでは、安全だった甲府の人々は比較的のんびりしていて、家財道具だけを安全なところに運んでおく「荷物疎開」をする方針の人が多かったそうです。太宰も、この風習に倣い、著書や衣類や蒲団などを久保寺家に疎開させていました。「荷物疎開」については、5月29日の記事で紹介しました。
太宰が甲府をあとにし、津軽へと旅立ったのは、7月28日のことでした。
【了】
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【参考文献】
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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