1月2日の太宰治。
1940年(昭和15年)1月2日。
太宰治 30歳。
正月三箇日の間に、昭和十一年十月以後、破門のようになっていて無沙汰していた、佐藤春夫宅にも年始の挨拶に行った。
佐藤春夫宅へ年始の挨拶に
なぜ、太宰は1936年(昭和11年)以降、佐藤春夫(1892~1964)から破門のようになっていたのか。太宰と佐藤春夫との出会いから、簡単に見て行きたいと思います。
1935年(昭和10年)、大正時代を代表する小説家である芥川龍之介の業績を
太宰は、1934年(1934年)2月に、
太宰の書いた『逆行』は、佐藤春夫の強い推薦もあり、第一回芥川賞の候補になりましたが、川端康成の反対によって受賞を逃してしまいます。これが、有名な「芥川賞事件」と呼ばれている事件です。また、盲腸炎での入院中に医師が処方したパビナール(麻薬性鎮痛鎮咳剤、正式名日本薬局方複方ヒコデノン注射液)の中毒になっていた太宰は、心身ともに不安定な状態になっており、翌1936年(昭和11年)2月、どうしても芥川賞が欲しいがために、佐藤春夫に懇願の書簡を送ります。
謹啓
一言のいつわりもすこしの誇張も申しあげません。
物質の苦しみが かさなり かさなり 死ぬことばかりを考えて居ります。
佐藤さん一人がたのみでございます。私は 恩を知って居ります。私は すぐれたる作品を書きました。これから もっともっと すぐれたる小説を書くことができます。私は もう十年くらゐ生きてゐたくてなりません。私は よい人間です。しっかりして居りますが、いままで運がわるくて、死ぬ一歩手前まで来てしまいました。芥川賞をもらえば、私は人の情に泣くでしょう。そうして、どんな苦しみとも戦って、生きて行けます。元気が出ます。お笑いにならずに、私を 助けて下さい。佐藤さんは私を助けることができます。
私をきらわないで下さい。私は かならずお報いすることができます。
お伺いしたほうがよいでしょうか。何日 何時に 来いと おっしゃれば、大雪でも大雨でも、飛んでまゐります。みもよもなくふるえながらお祈り申して居ります。家のない雀
治 拝
佐藤さま
ちなみに、この書簡、1mあります。
この書簡を受け取り、太宰の精神がパビナール中毒のために破綻をきたしていると考えた佐藤春夫は、医師である弟・佐藤秋雄の勤めている病院(済生会芝病院)へ太宰を入院させます。太宰は芝病院を1ヶ月程で退院しますが、その後も、『狂言の神』、『虚構の春』の発表をめぐって佐藤春夫の手助けを得ています。
さらに太宰は、佐藤春夫に『道化の華』、『狂言の神』、『虚構の春』の三部作に『虚構の彷徨』とタイトルをつけてもらい、その序文を書いてもらっていますが、この序文に関して太宰は、9月24日付の書簡で、
「虚構の彷徨」(三百五十枚)の序文、先生ほめて かいて下さい。一言居士は だめ。
井伏さんに装釘してもらいます。
と書いています。
この年の10月、このような太宰の様子を見かね、井伏鱒二からの相談もあり、太宰を東京武蔵野病院に送ることになります。この頃、太宰が一日にパビナールを注射していた平均本数として、同年7月17.5本、8月17本、9月16.2本、10月31本という津島美知子の調査結果も残されています。以後、太宰から佐藤春夫への手紙は後を絶ちます。
その後4年の時を経て、1940年(昭和15年)正月の佐藤春夫宅訪問。太宰は、どんな心境だったのでしょうか。
【了】
********************
【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************
【今日は何の日?
"太宰カレンダー"はこちら!】
【太宰治、全155作品はこちら!】