記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】7月22日

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7月22日の太宰治

  1937年(昭和12年)7月22日。
 太宰治 28歳。

 七月二十二日付で、平岡敏男(ひろおかとしお)に葉書を送る。

平岡敏男への近況報告

 今日は、1937年(昭和12年)7月22日付で、友人・平岡敏男ひろおかとしお(1909~1986)に宛てて書いた手紙を紹介します。 平岡は、北海道旭川の出身。弘前高等学校で新聞部に所属し、一期下の太宰と親交がありました。1932年(昭和7年)に東京帝国大学経済学部を卒業し、東京日日新聞社(後の毎日新聞東京本社)に入社。経済部記者、東京本社経済部長、論説委員、ロンドン支局長などを経て、1963年(昭和38年)に取締役、1966年(昭和41年)に西部本社代表、1968年(昭和43年)常務、1976年(昭和51年)2月に巨額の負債を抱え、経営危機に瀕していた毎日新聞社の社長に就任しました。

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■平岡敏男 東京都杉並区天沼の自宅居室で愛犬とくつろぐ。1954年(昭和29年)7月撮影。

 それでは、平岡宛のハガキを引用します。

  東京市杉並区天沼一ノ二一三 鎌滝方より
  東京市麹町区有楽町 東京日日新聞経済部
   平岡敏男宛

 拝啓
 その後ごぶさた申しています。義理わるく、とても拝眉の勇気が出ず、しつれい申しています。おゆるし下さい。こんど版画荘というところから、パンフレット式の小さい本出て、わずかですが、印税もらえそうですし、このあいだからかかっていた小説も、やっと仕上がりまして、これをもお金にするつもりでございます。
 今月は、初代が、いよいよ、国の母のもとへ帰ってしまい、私は夜具一そろい、机、行李一つ、にて下宿屋にうつり、あとの家財道具すべて初代にやって、餞別も三十円、少いけれども、私ひとりの力では、とてもそれ以上できぬ有様ですから、そんなわびしい別れかたをいたしました。上田君には、くれぐれもよろしくお伝え下さい。来月の十日頃までには、きっと、都合つけます。

 この頃の太宰は、内縁の妻・小山初代と離別し、杉並区天沼1丁目213番地の鎌滝方に引越したばかりでした。鎌滝方への引越しや、その後の初代とのやり取りについては、6月23日や7月19日の記事で紹介しました。

 「こんど版画荘というところから、パンフレット式の小さい本出て」とは、1937年(昭和12年)7月20日付で、「版画荘文庫4」として、版画荘から刊行された『二十世紀旗手』のこと。この短篇集には、雌に就いて』『二十世紀旗手』『喝采が収録されていました。

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■『二十世紀旗手』

 「上田君」とは、上田重彦(1910~2009、ペンネームは石上玄一郎)のこと。太宰の弘前高等学校時代の同級生で、1935年(昭和10年)に太宰がパビナール中毒になった際、お金の無心をしていました。なかなか返済ができず、直接、上田とやり取りするのが都合悪くなった太宰は、平岡に仲立ちをしてもらっていました。
 「上田君には、くれぐれもよろしくお伝え下さい。来月の十日頃までには、きっと、都合つけます。」とありますが、このハガキの3年後、1940年(昭和15年)に平岡に宛てて書かれた太宰の手紙に、「同封の額だけお送り致します」とあることから、3年経っても返済は済んでいなかったようです。
 3年後の太宰については、5月6日の記事で紹介しています。

 【了】

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【参考文献】
・平岡敏男『焔の時灰の時』(朝日新聞社、1979年)
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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