記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】7月23日

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7月23日の太宰治

  1944年(昭和19年)7月23日。
 太宰治 35歳。

 北海道、大連、青島などを、九州出身の職業軍人中村清に呼ばれるまま、水商売をしながら転々と渡り歩いていた小山初代(おやまはつよ)が、中華民国山東省青島市浙江路四号で、不遇のうちに病没、白布に包まれた、小さな四角の箱に入って、母キミの許に帰った。享年三十三歳。

小山初代の命日

 1944年(昭和19年)7月23日は、太宰の最初の妻で、作家として駆け出しの7年間を心身共に支え続けた小山初代(おやまはつよ)(1912~1944)の命日です。享年33歳。初代は、HUMAN LOST姥捨東京八景などの太宰作品に登場する女性のモデルになりました。

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■小山初代 1942年(昭和17年)撮影。

 初代は、1912年(明治45年)3月10日、小山藤一郎キミ(旧姓、吉沢)の長女として、北海道室蘭で生まれました。1922年(大正11年)、父の小山藤一郎が失踪したため、母子家庭になり、一家で青森に移住。母・キミは、置屋「野沢屋」で裁縫師として働きました。置屋とは、芸者や遊女を抱えている家で、料亭・待合・茶屋などの客の求めに応じて、芸者や遊女を差し向けました。遊女屋・芸者置屋・芸者屋などとも呼ばれました。

 1925年(大正14年)3月、南津軽郡大鰐町の大鰐尋常小学校を卒業し、母・キミの勧めで、料亭「玉屋」(「野沢屋」の後進)に仕込妓(しこみこ)(芸妓の使い走り)として住み込むようになります。その2年後、1927年(昭和2年)9月、客の1人で、当時旧姓弘前高等学校1年生だった津島修治(太宰の本名)と馴染みになります。

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■高校時代の津島修治

 1930年(昭和5年)9月30日、初代は、太宰の手引きで「玉屋」から出奔して上京。東京市本所区(現在の東京都墨田区)東駒形で太宰と同棲をはじめます。同年11月9日、太宰が初代の件と、左翼運動の件を理由に実家・津島家から分家除籍されたことに伴い、太宰の長兄・津島文治により青森へ連れ帰られ、落籍されます。
 しかし、同年11月29日、太宰は銀座のカフェ「ホリウッド」の女給・田部あつみと、七里ヶ浜海岸の小動神社裏海岸で心中未遂事件を起こします。この報せを青森で聞いた初代は、泣いて恨みを訴えたといいます。
 同年12月上旬、初代は太宰と仮祝言を挙げましたが、祖母・津島イシが、芸者を津島家に入れるわけにはいかないと反対したため、入籍はされませんでした。

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■芸者姿の紅子(小山初代)

  1931年(昭和6年)2月、初代は再び上京し、太宰と共に品川区五反田で新所帯を持ちます。以後、翌年7月まで太宰に従い、川崎想子という偽名で、左翼運動に関与しました。

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 1936年(昭和11年)、太宰がパビナール中毒療養のため、武蔵野病院に入院している間、太宰の義弟・小舘善四郎と過ちを犯してしまいます。
 1937年(昭和12年)3月初旬、太宰に過ちが露見。太宰からの手紙の一節を誤解した小舘が、既に太宰が知っているものと勘違いし、初代との関係を太宰に告げてしまったことが原因でした。この辺りの詳細については、3月5日の記事で詳しく紹介しました。

 この後、太宰と初代は、群馬県谷川温泉付近で、カルモチンによる自殺を図りますが、未遂。

 帰京後の6月、2人は初代の叔父・吉沢祐の仲立ちで、正式に離別します。太宰から餞別30円を受け取り、青森に帰青し、青森郊外の浅虫温泉で、弟・小山誠一の魚屋の仕事を手伝っていましたが、やがて家族に無断で北海道に渡り、道内を転々とします。この時期、処女と偽って、若い男と結婚したという説もあります。

 その後、九州出身の職業軍人中村清の勧めで満州に渡り、青島に住みます。軍属の世話係をしているような男の愛人になり、荒んだ生活を送っていたといわれます。

 1942年(昭和17年)初秋に一時帰国。杉並区の井伏鱒二宅を訪れ、約1週間逗留した後、浅虫の生家に帰って1ヶ月以上滞在。浅虫で小舘善四郎と再会し、「早く良い人を見つけて結婚しなさい」と言ったといいます。
 その後、再び井伏宅を訪れ、1週間ほど逗留した後、井伏夫妻からの反対を押し切って、再び青島に渡ります。当時、初代は、顔面神経痛を患っていたそうです。

 ここで、井伏鱒二『太宰 治』から、井伏が初代について回想している部分を引用して紹介します。

 私のうちには、琴、三味線を弾くものは一人もいない。しかるに、昭和十二年の初夏から去年の十二月下旬まで、朱色の袋に入れた山田流の琴が一面あった。その附属品として、琴爪を入れた桐の小箱もあった。
 この琴は、太宰治君の先の細君が(初代さんという名前だが)太宰君から離別された直後、いろんな家財道具と共に私のうちに預けておいたものである。当時、初代さんは青森県浅虫の生家へ引きとってもらう話をつける間、私のうちへ一箇月あまり泊って待機していた。離別された事情が事情だから、初代さんは生家へ引きとってもらえないかもしれぬという不安があって、はたの見る目もあわれなほど途方に暮れていた。茶の間の濡縁に私の家内と並んで腰をかけ、涙をぽたぽたこぼしているのを見たことがある。
 太宰君は初代さんに離別を云い渡したとき、家財道具いっさい初代さんに遣ってしまった。理由は、初代の不快な記憶のつきまとうがらくたは見るのもいやだからというのであった。そこで太宰君自身はどうかというに、自分の夜具と机と電気スタンドと洗面道具だけ持って、私のうちの近くの下宿に移って来た。着のみ着のままであった。
 太宰君は衣装道楽の男だが、着物は洗いざらい質に入れていた。初代さんの衣装も殆どみんな質に入れていた。だから初代さんは離別された後、自分の着物を流さないようにするために、家財道具の一部を古物屋に売って質屋の利息を工面した。
太宰君は初代さんが私のうちにいる間にも、たびたび私のうちへ将棋を指しに来た。

 

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 そのつど初代さんは茶の間か台所にかくれたが、書斎と居間を兼ねた私の部屋は台所と壁一重で隣である。私のうちは建坪が少くて、茶の間から便所へ行きたくても我慢しなければならないことになる。だから私は将棋は一番だけにして太宰を誘って外出する。外出してから一緒に飲むようなことがあると、太宰の上機嫌になっているところを見はからって、どうだ君、初代さんとよりを戻す気はないかと云う。すると太宰は、居直ったかのように、きっとして、その話だけは絶対にお断りしたいと、きっぱりした口をきく。そんなことが二度か三度あったと思う。そのくせ彼は、別れた女房が万一にも短気を起しはせぬかと、はらはらしているようなところがあった。
 そのうちに初代さんが生家へ引きとられて行くことになると、夜具蒲団や質請けした衣装などをまとめて通運に頼み、私のうちを出発するときには火鉢と米櫃を私の家内に生き形見として置いた。それから、朱色の袋に入っている琴を、これは私のうちの当時六つか七つになる女の子に、いずれ琴を習う日が来るだろうから預けておくと云って残して行った。
  (中略)
 初代さんは私たちの疎開する半年ほど前に、不意に私のうちへやって来て、大陸の青島からの帰りだと云った。私たち夫妻はびっくりした。そのとき初代さんは一週間ばかり私のうちへ泊って浅虫の生家へ帰ったが、一箇月ばかりたつとまたやって来て、これからまた青島へ行くところだと云った。私と家内が共々に、そんな無謀は止しなさいと引きとめると、止そうかどうしようかと迷いながら私のうちに一週間あまり泊って考えこんでいた。私たちが何と云っても塞ぎこんでいるばかりで張合がなかった。とうとう初代さんは青島へ出かけて行った。よくよくの事情があったのだろう。私たちが甲府疎開してしばらくすると、青島で初代さんが亡くなったと浅虫のお母さんから知らせて来た。
 私たち一家は甲府が空襲で焼けた翌々日、日下部の駅から乗車して広島県の私の生家に再疎開した。私たちは、ここに二年半ほどいて東京に帰って来た。物置部屋にたてかけておいた琴はちっとも鼠の害をうけていなかった。朱色の袋も安全で、糸一本も食いきられていなかった。

 その翌々年であったか、私は十和田湖へ行ったついでに浅虫に寄って初代さんの生家を訪れた。故人の法事をするから、青森に来たら寄ってくれという通知を受けたからである。私は初代さんの法事だとばかり思って二階の座敷にあがったが、お供物を並べた仏壇に飾ってある大型の写真は、意外にも太宰治の肖像であった。
「なるほど、そうだったのか。」
 私は焼香する前にそう思った。
「しかし、なぜそれならば、初代さんの法事も一緒にしないんだろう。」
 焼香した後で、傍を見ると、初代さんの写真が目についた。しかも、それが座敷の隅の箪笥の上に、いかにも遠慮がちに片隅へ寄せて写真たてに入れてある。太宰の法事を、写真の初代さんに、人しれずお相伴させてやろうというお母さんの心づかいであったろう。人なつこくて、しかし遠慮がちなところが、お母さんも初代さんにそっくりではないか。
 私は元の座に戻ると、感傷を抜きにする意味でお母さんに云った。
「太宰は生前、ひとなつこいという言葉を、人なッこいと云ってましたね、学生時代からずっとそうでしたね。」
「わたくし、よく覚えませんですが、そうでしたかしら。」
「いや、戦後はどうか知りませんが、甲府疎開していたころまでは、ずっとそう云ってました。人なッこい、ハチヨは人なッこい。そう云ってましたね。」
 それにしても、私たちが琴を返すまで初代さんが生きていてくれたらよかったのだ。私は未だに琴を預かったままにしてることを話した。すると、お母さんは掠れ声で云った。
「うちには、もう琴を弾くものは一人もおりません。お宅で弾いて下さい。初代の形見と思って。」

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■太宰と井伏 

 1944年(昭和19年)7月23日、初代は青島で亡くなりました。享年33歳。
 同年8月23日、初代は白木の箱に収まって帰国。太宰が初代の死を知ったのは、翌1945年(昭和20年)4月10日、井伏の口からでした。

 初代の墓は、青森県弘前市・禅林街の静安寺にあります。
 戒名は、「法華院初代妙代大姉」。

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■静安寺 2019年、著者撮影。

 初代の眠る小山家の墓は、無縁墓になり、一時期荒れていましたが、2019年(令和元年)6月、船橋太宰会の会長・海老原義憲さんが自費で整備し、顕彰碑も建立しました。太宰と初代は、一時期、千葉県船橋市で暮らしていました。太宰は、東京八景に「私には千葉県船橋町の家が最も愛着が深かった」と書いています。

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■小山家の墓 2019年、著者撮影。

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■小山初代顕彰碑 2019年、著者撮影。

 「小山初代顕彰碑」には、

「おれは、この女を愛している。どうしていいか、わからないほど愛している。そいつが、おれの苦悩のはじまりなんだ。」
「そうよ、あたしは、どうせ気にいられないお嫁よ。」

と、太宰の小説姥捨の一節が刻まれています。

 初代の晩年について、長篠康一郎は、太宰治文学アルバムー女性篇ー』で、次のように述べています。

 昭和十六年十二月八日、日本は米英両国に対して、宣戦を布告し、太平洋戦争(当時は大東亜戦争)に突入した。小山初代が遠く山東省の青島に勤めを変えたのは、マニラ占領シンガポール攻略と連戦連勝に湧きかえっていた昭和十七年のことである。すでに日本内地では統制の強化で商売にならず、見切りをつけて青島へ渡航する小山初代を、東京駅に見送ったのは叔父の吉沢裕であったという。その後、軍属の中村清と共に一度だけ帰郷しているので、伝えられるような娼婦とか慰安婦であるはずがなく、そのことは、青島に渡った後の初代の写真からも窺えると私は思う。また、亡くなった年の春、おそらく最後となったであろう写真を写しているが、その写真に見る初代は、これまでの母親譲りの勝気さがすっかり消えていて、ごく普通の健康な家庭の主婦といった感じである。小山初代の晩年は、中村氏に看取られつつ安らかに、その薄幸な生涯を閉じたのではないだろうか。

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■小山初代 「これまでの母親譲りの勝気さがすっかり消えていて、ごく普通の健康な家庭の主婦といった感じ」1944年(昭和19年)撮影。

 【了】

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【参考文献】
・長篠康一郎『太宰治文学アルバム―女性篇―』(広論社、1982年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
井伏鱒二『太宰 治』(ちくま文庫、2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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