7月27日の太宰治。
1936年(昭和11年)7月27日。
太宰治 27歳。
七月二十七日付で、佐藤春夫に手紙を送る。
佐藤春夫へ「オ許シ下サイ」
佐藤春夫(1892~1964)は、和歌山県
■佐藤春夫
佐藤は、俗に「門人三千人」といわれ、井伏鱒二、太宰治、檀一雄、吉行淳之介、稲垣足穂、龍胆寺雄、柴田錬三郎、中村真一郎、五味康祐、遠藤周作、安岡章太郎、古山高麗雄など、一流の作家になった人も多くいました。
自分を慕う者の面倒はどこまでも見たが、自分を粗略に扱った(と思った)者はすぐに厚誼を途絶するという、物事を白・黒の両極端でしか見ない傾向があったそうです。
太宰の親友でもある檀一雄は、川端康成の家に遊びに行っても酒が出ないので閉口していたところ、佐藤の家を訪れた際には、自身が下戸なのにもかかわらず、気前よく酒が振舞われたことに感激し、それ以降、弟子を自任するようになったといいます。
■檀一雄
それでは、1936年(昭和11年)7月27日付で、佐藤に宛てて書かれた手紙を見ていきます。
千葉県船橋町五日市本宿一九二八より
東京市小石川区関口町二〇七
佐藤春夫宛
先生。
先日ハ、オ許シ下サイ。コレカラ気ヲツケマス。大風ノ日、大風ノ主ノ如ク、コロガリ込ミ、舌ソヨギ、コロゲ出タ。知ラヌ男イルト駄目デスネ。新潮ノ小説、マダ三枚、何ヲカイテモ、ミンナ、ヒトトオリ巧クデキテ、大変ツマラナイ、書イテハ破リ、書イテハ破リ、先夜カラ腹痛、難ジュウシテ居リマス。三十日ニハ兵隊ケンサ、髪落ス法ナイト思イマスカラ、大家ノ爺サンニ役場ヘ言イニ行カセ、トウトウ、長髪サシツカエナシ、トイウコトニナリマシタ。若シ検査官ガ私ヲ侮辱シタナラ、堂々、意見開陳スルツモリデス。誠実ナラバ、鬼デモ首肯イタシマス。
写真二葉。同封。
近日、オ伺イ申シマス。
治、九拝。
コンドノ新潮ノ小説、一行一行、先生ニ叱正シテイタダクツモリ。ナゼカ、厳密ノモノ欲シクテナリマセヌ。イマハ、マルデ、真空管ノ中ニイレラレテ、重圧失イ、随所デ ヒッソリ浮ンデ居ル、カノ一片ノ羽毛ノ 思イデ、カカリ端マルキリ ナク、コレガ当然ノ市民ノ生活ナノカシラ。
先生ヘハ、イツモコンナ失礼ナ書キカタシテシマッテゴメン下サイ、ホカノ人ヘハチャントシテ認メテイマスユエ御心配下サイマセヌヨウ。
太宰はこの頃、「新潮」九月号に掲載する小説30枚用に、『白猿狂乱』を執筆しようとしましたが、難渋していました。
7月27日に佐藤に宛てた手紙の中に、「書イテハ破リ、書イテハ破リ、先夜カラ腹痛、難ジュウシテ居リマス」とありますが、同日午後8時になっても8枚しか書けず、間に合わないと悟った太宰は、ペンを捨て、9時半に船橋の自宅を飛び出して佐藤宅へ行き、次のようなハガキ(2枚表裏)を郵便受けに投函します。
①只今十一時、モハヤ奥様、マサヤ様、ミナサマ オヤスミノコトト存ジマス ユエ、ソット静カニカエリマス。
今イチド、ダケ、サイゴノ非礼、オユルシ下サイ、先生怒ッタラ 私、死ニマス、「白猿狂乱」三十枚、先生ノオ顔 ヨゴスコトナキ作品ト信ジマス。必ズ八月十日マデニオ送リ申シマス。時日サエ ゴザイマシタナラ、ソウシテ、胃腸ノ苦痛(ウラ)
②(ウラ ヨリツヅク)ナカッタナラバ、コンナゴメイワク 決シテ カケズトモ ヨカッタノニ。文藝春秋ノ千葉氏、東陽ニ宮澤氏ニハ、私カラ誠実吐露、事情イツワラズ、心底カラノオワビ状 カキマス。コノタビノコト、スベテ私ノ勝手ワガママ、佐藤先生ニハ露カカワリ合イナキコト、私ヒトリニ責、コノ点ハ、千葉氏富澤氏ナド関係諸氏ヘ ハッキリ申シテ置キマス、生キノビテユクガタメ、苦シクトモ シノビマス。(ツヅク)
③コレガ最後、誠実一路ノオ願イ、キットオ許シ下サイ。タダイマ、オナカニハ熱イユタンポ アテテ、一歩一歩ゴボゴボ 音タテ、今朝、オートミル 啜ッタダケニテ、ホトンド絶食、唯一ノ食料 クズユノフクロ持ッテ 醜キ姿態ユエ、ソノ理由モ少シゴザイマス、オユルシ下サイ、マズ先生ノトコロヘ行ッテ 許可ネガイ、ソレカラ本屋ヘ行キ 拙稿受ケトリ、今夜、友人宅ヘ一泊、
④アチコチ拙稿手入シテ、アスアサ、涼シキウチニ用事スベテ果シ、ヒョットシタラ、夕、オ伺イスルヤモ知レマセヌ、森田タマ氏ノ随筆、今朝オ送リ申シアゲマシタ、タワムレニ私ノ顔、フナバシノ町 散歩ノスガタ 二葉同封イタシマシタ、新潮ハッキリ間ニ合ワヌコト悟リシハ、今夜、八時、ヨソヘアソビニ行ッテル女房サガシテ、ヤット九時半、家ヲ出マシタ。
『白猿狂乱』が「新潮」九月号の締め切りに間に合わないと悟った太宰は、富澤有為男編集の美術雑誌「東陽」十月号に掲載予定だった『狂言の神』を「新潮」に回すことを思い付きます。「東陽」への小説掲載は、佐藤の紹介で決まったものでした。
太宰は、ひとまず了承を得ようと佐藤宅を訪れますが、気後れしてしまったらしく、2枚のハガキ表裏にそのいきさつを書いて、郵便受けに投げ込んで引き返したようです。
この後、太宰は、巣林書房へ行って、「拙稿『狂言ノ神』クルシクオ借シ下サイ」と記した名刺と交換に、『狂言の神』の原稿を持ち帰り、翌7月28日に、新潮社へ持参しました。
8月1日、太宰は「ハナシアルスグコイ」の電報で、佐藤宅に呼びつけられ、厳しい訓戒を与えられた後、神田区小川町1の10に牧野吉晴を訪ね、同席した「東陽」編集者・富澤有為男に散々叱られたそうです。
ちなみに、『白猿狂乱』というタイトルの小説は、発表されることはありませんでした。
【了】
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【参考文献】
・長篠康一郎『太宰治文学アルバム』(広論社、1981年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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