7月31日の太宰治。
1935年(昭和10年)7月31日。
太宰治 25歳。
七月三十一日付で、
弟のように可愛がった小舘善四郎
今日は、1935年(昭和10年)7月31日付で、
小舘は、青森県青森市生まれの洋画家です。青森中学校を経て、1932年(昭和7年)、帝国美術学校(現在の、武蔵野美術大学)の教授・牧野虎雄に師事。師の薦めで、同校に学びました。1936年(昭和11年)11月、学校側の都合により繰り上げ卒業後、青森へ帰郷。1936年(昭和11年)から1943年(昭和18年)までの7年間、母校・青森中学校で図画家教師を勤めました。
1938年(昭和13年)、第13回国画会展で初入選以降、連続出品。1948年(昭和23年)、国画奨学賞受賞。1953年(昭和28年)、国画会会員。1975年(昭和50年)、青森県褒賞受賞。1992年(平成4年)、青森県文化賞受賞。1998年(平成10年)、国画会永年会員。2000年(平成12年)、文化庁地域文化功労者表彰受賞など、数々の功績を収めています。
作家・梶井基次郎の『檸檬』にちなんでレモンをモチーフにした静物画が多く、「レモンの画家」と呼ばれています。
■小舘善四郎
太宰の四姉・きやうが、小舘の長兄・小舘貞一に嫁いだ1928年(昭和3年)6月をきっかけに、太宰と小舘の交流がはじまります。つまり、小舘は、太宰の義理の弟にあたります。太宰は、5歳下の小舘を、弟のように可愛がったそうです。
それでは、小舘に宛てて書かれた太宰のハガキを紹介します。
千葉県船橋町五日市本宿一九二八より
青森県浪打六二〇
小舘善四郎宛
このごろ、どうしているか。不滅の芸術家であるという誇りを、いつも忘れてはいけない。ただ頭を高くしろという意味でない。死ぬほど勉強しろということである。and thenひとの侮辱を一寸もゆるしてはいけない。自分に一寸五分の力があるなら、それを認めさせるまでは一歩も退いては、いけない。僕、芥川賞らしい。新聞の下馬評だからあてにならぬけれども、いずれにせよ、今年中に文藝春秋に作品のる筈。お母上によろしく。僕は君の家中で母上をいちばん好きだ、母上は好い人だ。
小舘を心配しているのか、芥川賞に選ばれそうなことを自慢したいのか、どちらが主旨なのか…というようなハガキですが、小舘を気遣い、アドバイスを送りたい太宰の気持ちは伝わってきます。
ここに出て来る「僕、芥川賞らしい。」とは、第一回芥川龍之介賞のこと。太宰は「新聞の下馬評だからあてにならぬけれども」と書いていますが、周知の通り、太宰の候補作『逆行』が、芥川賞に選ばれることはありませんでした。
しかし、「今年中に文藝春秋に作品のる筈」とある通り、太宰をはじめ、芥川賞候補に選ばれていた作家4名に「文藝春秋」から原稿依頼があり、同年10月1日付の「文藝春秋」十月号に『ダス・ゲマイネ』が掲載されました。
■太宰と小舘善四郎
【了】
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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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