8月1日の太宰治。
1938年(昭和13年)8月1日。
太宰治 29歳。
八月一日付発行の「日本浪漫派」八月号の
『緒方君を殺した者』
今日は、太宰のエッセイ『緒方君を殺した者』を紹介します。
『緒方君を殺した者』は、1938年(昭和13)年8月1日発行の「日本浪漫派」第四巻第三号に発表されました。この欄には、ほかに『緒方君追悼』(木山捷平)、『招くということ』(高橋幸雄)、『緒方隆士の影』(緑川貢)、『緒方隆士に』(芳賀檀)、『葬儀の朝』(中村地平)、『雁の門』(緒方隆士)が掲載されていました。外村繁による『編集後記』には、「本号をもって緒方隆士の追悼号とする」とあります。
「緒方君」とは、福岡県朝倉郡福田村生まれの小説家、
病者、弱者、貧者としての自己を素材とした小説を書き、『花開く夢』、『虹と鎖』、『雁の門』などの作品があります。『虹と鎖』は、第3回芥川龍之介賞の候補作にもなりました。
■緒方隆士
緒方は、1938年(昭和13年)4月28日に亡くなりました。
今日紹介するエッセイ『緒方君を殺した者』は、太宰が緒方に捧げる追悼文です。
『緒方君を殺した者』
緒方氏の臨終は決して平和なものではなかったと聞いている。歯ぎしりして死んでいったと聞いている。私と緒方氏とは、ほんの二三度合っただけの間柄ではあるが、よい小説家を、懸命に努力した人間を、よほどの不幸の場所に置いたまま、そのまま死なせてしまったという事実に就いて、かなりの苦痛を感じている。
追悼の文は、つくづく、むずかしいものである。一束の弔花を棺に投入して、そうしてハンケチで顔を覆って泣き崩れる姿は、これは気高いものであろうが、けれども、それはわかい女の姿であって、男が、いいとしをして、そんなことは、できない。真似られるものではない。へんに、しらじらしく真面目になるだけである。
誰が緒方氏を殺したのか。乱暴な言葉である。窒息するほどいやな言葉である。けれども私は、この不愉快極る疑問からのがれることができなかったのである。どうにも、かなわないので、真正面から取り組んでしまった。
ひと一人、くらい境遇に落ち込んだ場合、その肉親のうちの気の弱いものか、または、その友人のうちの口下手の者が、その責任を押しつけられ犯しもせぬ罪を世人に謝し、なんとなく肩身のせまい思いをしているものである。それでは、いけない。
うっとうしいことである。作家がいけないのである。作家精神がいけないのである。不幸が、そんなにこわかったら、作家をよすことである。作家精神を捨てることである。不幸にあこがれたことがなかったか。病弱を美しいと思い描いたことがなかったか。敗北に享楽したことがなかったか。不遇を尊敬したことがなかったか。愚かさを愛したことがなかったか。
全部、作家は、不幸である。誰もかれも、苦しみ苦しみ生きている。緒方氏を不幸にしたものは、緒方氏の作家である。緒方氏自身の作家精神である。たくましい、一流の作家精神である。
人の死んだ席で、なんの用事もせず、どっかと坐ったまま仏頂づらしてぶつぶつ屁理屈ならべている男の姿は、たしかに、見よいものではない。馬鹿である。気のきいたお悔みの言葉ひとつ述べることができない。許したまえ。この男は、悲しいのだ。自身の無力がくやしいのだ。息子戦死の報を聞くや、つと立って台所に行き、しゃっしゃっと米をといだという母親のぶざまと共に、この男の悲しみの転倒した表現をも、苦笑してゆるしてもらいたい。
ずいぶんたくさん書くことを用意していた筈なのに、異様にこわばって、書けなくなった。追悼文は、いやだ。死人に口がなにのだから、なお、いやだ。
冒頭は、追悼文の様相を呈していましたが、徐々に迷走していき、作家批判へと続き、「ずいぶんたくさん書くことを用意していた筈なのに、異様にこわばって、書けなくなった。追悼文は、いやだ。死人に口がなにのだから、なお、いやだ。」と締めくくる。この追悼文の、太宰の真意は、如何に。
【了】
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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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