記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を、自由に旅する。太宰治が、ソウルフレンド。

【日めくり太宰治】8月3日

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8月3日の太宰治

  1941年(昭和16年)8月3日。
 太宰治 32歳。

 当時高山書院に務めていた菊田義孝(きくたよしたか)が、はじめて三鷹の家を訪れた。

菊田義孝、三鷹の住居を初訪問

 1941年(昭和16年)8月3日、高山書院に勤めていた菊田義孝(きくたよしたか)(1916~2002)が、はじめて太宰の住む三鷹の家を訪れました。
 菊田は、宮城県仙台市生まれの小説家、詩人。1937年(昭和12年)に明治大学専門部文芸科を卒業した後、高山書院で雑誌図書の編集に従事していました。1986年(昭和61年)5月に東京を引き払い、故郷・仙台市に引っ越しますが、2002年(平成14年)7月、仙台市岩切の自宅で逝去しました。享年86歳でした。
 太宰は、1944年(昭和19年)の大晦日に、菊田夫妻に招かれて中野の自宅を訪問しています。多くの弟子たちの来訪には快く応じる太宰ですが、自ら弟子の自宅に赴くことは珍しいことでした。菊田は、無教会主義的信仰を持ったキリスト教信者だったため、太宰との会話は、聖書に関するものが多かったようです。

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■菊田義孝 神田すずらん通りで。

  それでは、菊田と太宰のはじめての出会いについて、菊田の太宰治と罪の問題』から引用して紹介します。

 はじめて、太宰さんをお訪ねしたのは、昭和十六年八月三日で、暑いさかりの日曜日であった。
 昼過ぎ、中野の家を出て、三鷹まで省線に乗り、降りると、上着を脱いで腕にかけ、炎天の下を探しまわった。畑の中や、上水道のほとりや、どこかの社宅と思われる、よく似た家の建ち並んだ前を行ったり来たり、随分広範囲に探しまわったが、どうしても見当たらなかった。
 私は、三鷹というところは、はじめてであった。ただ、太宰さんの『東京八景』のなかに、三鷹の家の茶の間で夕食をしていると、眼の前の畑の遥かむこうに、武蔵野の大きな夕陽がぶるぶる震えながら落ちてゆくのが見える、ということが書いてあったので、そのつもりで、そういう情景を心に描きながら、探しまわっていたのである。
 ひろびろとした畑の中に、ぽつんと一軒だけ建っている家。そんな映像さえ思い浮べていたのである。けれども、現実の三鷹は、私の想像とは大分ちがっていた。思ったよりは遥かに家数も多く、空地や畑も少なかった。(今から思うと、太宰さんが『東京八景』の中に書かれた「三鷹」は、太宰さんがそこに住まわれた一ばんはじめの頃の「三鷹」で、その頃は、お宅のまわりに家数も少なく、私の想像したところにやや近いものだったかもしれないが、その後急激に人家がふえて、はじめの頃とは大分趣きを変えてしまったらしいのである。太宰さんはその辺の居住者としては、いわゆる草分けの方だったらしい。)
 さて、私は、べつに慌てる気にもならず、真夏の陽の下を、上着をかかえて、ぐるぐる根気よく歩き続けたが、しまいには流石にうんざりして、歩調も次第に速くなった。

  (中略)
 私がその日、太宰さんをお訪ねしようと決心した気持の中には、一種の感慨めいたものがあった。思いつめた、と言ってもよい程のものであった。これという外的な動機も、原因も、思い出すことは出来ないが、ただ何かしら太宰さんの、強く清らかな生命に触れて、自分の卑しく、濁った生命を甦新せしめるよすがともしたい。――そんなことを、漠然と考えていたようである。
 私は、太宰さんの小説を愛することにかけて、誰にも負けないつもりでいた。そして、ひとかど太宰さんの「理解者」をもって任じていたのである。その後太宰さんの小説は、思ったより多くの人々に読まれ、私同様の文学青年の中に、その崇拝者、支持者、追随者、熱愛者、などが存外多いことに気がついて来たが、その頃はまさかそれほどとも思わず、太宰さんの文学精神を真に理解しうるものは、この自分を措いてないのだ。というていの、ウヌボレさえ抱いていたのである。
  (中略)
 その年の正月、当時、私がつとめていた高山書院で田中英光氏の『オリムポスの果実』を出版することになっており、(或いは出版した直後だったかもしれないが、その点記憶がはっきりしないが、とにかく)その関係で、任地の京城から出京して来た英光氏が、神田小川町の高山書院に立ち寄った。仕事初めの日だったから、正月四、五日ごろのことである。英光氏は、その前夜、太宰さんや山岸外史氏と痛飲したあとらしく、二日酔の気味だった。初対面の山岸さんに、「田中君は東京人らしく如才がないね」とかいう意味のことを言われたとかいって、笑いながらも気になるような口吻を洩らしていた。英光氏にとっては、自分の本がはじめて出版され、これから一個の「文壇人」として立ってゆこうという発足点にいたときのことだから、なんといっても心は若々しくハズンでいたにちがいない。高山の社長と、編集者がニ、三人、英光氏を連れて、ひる日なかの、明るい電車道を横切って、向いの「今文」に行き、スキ焼きで飲んだ。電車道を横切るときうしろから見ると、英光氏の靴は、カガトからツマサキまで、一尺ぐらいあるように見えた。

 

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■太宰の弟子・田中英光

 

 酒の席で、私が、いままで発表された太宰さんの作品は、ほとんど全部読んでいるつもりだ、と英光氏に言った。そのあと、トイレットの前で、二人が会うと、英光氏が、
「どう、これから太宰さんのところへ行こうか」と誘いかけた。英光氏にすれば、なんとか口実を設けて、昨夜別れたばかりの太宰さんの傍へまた行きたく、なお私のような未見の読者を、太宰さんに紹介することに、得意を感じたかったのではないかと思う。私は余りに思いがけなく、嬉しい誘惑だったので、内心ドキリとウロタエてしまった。そして、反動的に、英光氏の眼を昂然と見返すような気持で、
「行くときは、一人で押しかけて行きます」といやにキッパリ、はねつけてしまったのである。(中略)
「そうかい」と、英光氏はニコニコして、それ以上すすめようとしなかった。私は、ひどくもの足らない気がした。
 そのときの事は、私の心に深くのこった。英光氏と、まるで約束でもしたような気持で、早く太宰さんと、会わなければと、せきたてられるような具合になってきたのである。それでも、何かと延び延びになって、その年も八月になったのである。

 (中略)小路を入ってゆくと、一ばん奥の方に物干があって、赤ちゃんのおしめが掛けてある。太宰さんに、赤ちゃんがあったとは知らなかった。太宰さんの小説にも、奥さんを貰われた時の事は出ていたが、赤ちゃんの生れた事はまだ書いていなかったようだが――少し変だと思いながら、恐る恐る玄関の前まで行ってみた。
 玄関の左の柱に、ややほそい、けれどもどこか奔放な字で、
  太 宰  治
 とあり、その下に小さくカッコをして、 津島 としるされてあった。(中略)

 

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三鷹の自宅表札 太宰が木製の菓子折りの箱を利用して作成したもの。戸籍名に括弧書きで筆名が墨書きされ、玄関の左の柱に打ち付けたという。菊田の回想は記憶違いか。

 

  はじめ、奥様が出てこられた。大柄のかたである。高山書院の肩書がついた名刺をお渡しすると、ちょっと引込まれて、すぐまた出てこられ、あがるように言われた。狭い玄関を上がったところが、すぐに太宰さんの書斎兼仕事部屋である。応接室も兼ねていたといえよう。六畳間である。部屋の隅に床の間があり、床の間の前に、かなり古びた感じのする勉強机と、黒塗りの客用テーブルが並べて置いてあった。勉強机に向って坐ると、床の間は太宰さんの左手になるわけである。部屋の主は、そこにいなかった。次の間で奥様に話しかける、その人のらしい声がしていた。少し風邪気味の声にきこえる。勉強机の端しの方に、大きな旧約聖書がのせてあった。ばかに大きな本に見えた。床の間には、佐藤一斎の軸がかかり、その横に、釣竿が立てかけてあった。ほかにも幾冊かの本が積重ねてあって、床の間はやや雑然たる感じがした。
  (中略)


 太宰さんが、部屋にはいってこられた。荒い模様の浴衣であったが、私ははじめ、遠慮なしに言うと、寝巻を着ておられるのかと思ったのである。私は少し改まってお辞儀をした。太宰さんもちょっと膝をついて、頭をすばやく二度ほど下げられ、また立って、机の前に坐り直された。立ち上がられたとき、見ると、太宰さんはその浴衣の上に、角帯をしめておられた。それを見て、私は何か安心した。
「今日は、社用で伺ったんじゃないんです」
 私は最初に、そう切り出した。その少し前、『オリムポスの果実』の序文を太宰さんにお願いするため、高山書院から他の編集者がお伺いしたあとだったので、とくにそうおことわりしたわけだった。それにまた、一刻も早く、作家と出版社の人間という関係から脱け出して、一人の読者として太宰さんに対したかった。
「あ、そう、僕もそのほうが、気がらくでいい」
 太宰さんは、気軽に答えられた。
 暑かったので、私は上着をとらしていただいた。そして太宰さんが部屋の隅の箪笥の上からとって下さった団扇をそっと使ったりしながら、太宰さんのお話を伺ったり、自分で話したりした。太宰さんは、ちょうどその頃、歯の治療をしておられて、前歯を大部分抜いたばかりのところだった。それで顔の造作も、大分ふだんと変わっていたらしい。そのせいか、私の第一印象では、ずいぶん年寄り染みた顔のようにも見えたのである。太宰さんも、それを気にしておられたらしく、幾度もそのことに触れられてた。「君はちょうど、一ばん悪いときに来てくれた」手のひらで口をかくすようにしながら、そんなことも、言われたのである。

 

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  お部屋の前の庭は、あまり広いとは言えなかった。太宰さんの小説の中に、狭い庭にあまりいろんなものを植えすぎて失敗した話があった(『失敗園』)のを思い出し、私は少し興味を持って、それとなく見廻していた。これといって、眼につくものもなかったが、ただ縁側の傍近くに、何かボウボウとした感じのものが生えているので、伺ってみると、麻だ、ということであった。
「ちょっと、面白いものですね」
と言うと、太宰さんはやや得意気にうなずかれた。それから私が、柄にないユーモアを狙ったつもりで、感じたままに、
「ジャングルみたいで……」とつけ加えると、太宰さんは急に慌てたような眼付で、チラと私の顔を見られた。私の観察は、明らかに太宰さんの意図に反したものだったらしい。ひどく気が利かないことを言ってしまったと思い、それにしても、太宰さんには、今の私の言葉がよく聞きとれたのかしらと、心のうちで考えていた。
 この失敗を取返すつもりで、こんどは一斎の書に眼をつけた。

 

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佐藤一斎の掛軸 

 

「なんて読むんでしょうか」などと殊勝らしくきいているうちはよかったが、そのうちふと口が滑って、
「ほんものでしょうか」と失礼なことを口走った。言ってから、しまった、と思って太宰さんの顔を見ると、太宰さんは穏やかに微笑んで、
「まあ、ほんものでしょうね。しかしこういうものは、ホンモノとかニセモノとか、あまり神経質にせんさくすることはないのかもしれないね。たとえニセモノでもそれを見て、相当にたのしめるようなものなら、それはそれで、いいものだと言えるのかもしれないよ」と私の重ね重ねの失敗を、むしろ取りなし顔に言われた。私という馬鹿な訪問者に対して、一種のあきらめを感じ出しておられたのかもしれない。
 暫くすると、空が曇って、あたりが幾分薄暗くなって来た。夕立が来そうな気配だった。
 私がふと、北海道に行って住んでみたいと思っている、とその頃漠然と望んでいたことを口にすると、
「それはいい」としきりに共鳴されて、わざわざ立ち上がり、箪笥の戸棚から北海道の絵葉書や旅行案内など出して来て見せて下さった。摩周湖の写真や、どこかの市内から見える山を詠った、啄木の歌を刷り込んだものなどあった。摩周湖には、特に興味を覚えた。非常識な私は、摩周湖という湖の存在を、そのときはじめて知ったのである。湖の周囲は、高い切り立った絶壁で、下を見ると、湖の底から湯が沸いているために真っ白い湯気が濛々とたちこめ、水面が見えない。そんなことも教えられた。私は啄木の歌を一読していいと思い、それでも余り自信がなく、どうかと思いながら低い声で言ってみた。太宰さんは、いいとも悪いとも言われなかった。

 

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摩周湖 北海道川上郡弟子屈町にある湖。日本では最も、世界ではバイカル湖に次いで2番目に透明度が高い湖。急激に深くなっていることと、その透明度から、青以外の光の反射が少なく、快晴の湖面の色は「摩周ブルー」と呼ばれている。

 

 太宰さんは、静岡から西へは未だ行ったことがなく、行くとしても、もっと年を取ってからにしたいと思っている、と言われた。そのあとで、
「北海道の郷愁は、澄んでいるね」と言われたが、私には何のことか呑みこめなかった。腑に落ちない顔をしていると、
「僕は、まだ行ったことはないが、九州の郷愁は、なんとなく濁っていそうな気がする。それに較べると、北海道の郷愁は澄んでいる」
と説明された。それでもまだ私が納得しきらずに、その意味を想像しながら生返事をしていたので、その話はそれで立消えになった。(中略)


 雨の晴れ間を見て、立ち上がった。(中略)
「一しょに出よう」と太宰さんに言われ、私があまりお仕事の邪魔をしても、とか、奥さんにわるい、とか、いう気がするものの、やはり一しょに出る方がたのしい気もして、もじもじしている間に、太宰さんはこまかい紺ガスリの着物に着かえ、玄関で奥様に挨拶している私を残したまま、後をも見ずに出てゆかれた。私が慌てて後を追って、露地の出入口まで行くと、露地の外に立ち停って待っていた太宰さんは、手にしていた傘を私に預けて、とって返された。そして間もなく真っ白いハンカチで、顔を拭き拭き出てこられた。多分そのハンカチを、取りに戻られたのだろうと思う。

 

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 太宰さんはかなり背丈が高く、しかも足駄を穿いているので、靴を穿いた私が並んで歩くと、横眼で見上げるようになった。外に出たせいか、はじめて見る顔のようであった。
 黄昏というにはまだ少し早かったが、それでもどこかに、ほのかな夕色が漂っていた。そのなかで、ふと横から見上げた太宰さんの顔に、淡い憂色――いわば黄昏の憂愁、とでもいいたい、遺る瀬なく疲れたようなかなしみの影が、微かに漂って見えたのである。酸鼻の極――と誰かが言った、太宰さんの青春の一時期。そのはげしい苦難の渦中から、浮び上がってきた顔である。太宰さんには、微塵も不自然に緊張したところはない。深刻そうに、眉をしかめたりはしない。(中略)

 

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 三鷹駅の前の広場で、立ちどまると、
「いま、何時?」ときかれた。時計を見ると、五時少し前。
「じゃ、ちょっとビールでも」言い終わらぬうちに、横丁を曲っていた。流石にためらいを感じたが、でも、太宰さんとイッパイ飲めるのは、悪かろう道理がない。――そんなことをあらわに思いながら、おどおど後に従った。二三軒先に、縄ノレンのかかった家があった。ノレンを分けて入ると、隅の方に陣どった。早い客が、ニ、三人いた。注文したジョッキイがくると、すぐさま手をかけて、くすりと笑い、
「右手に聖典、左手に酒盃を持ち、罪にわななきつつ詩をつくる、というのは、ちょうど僕らのようなものだね」と優しい語尾で言い、
「僕らの世代が卑屈なのは、神が何処かできっと見ている、という実感があるからですよ。神は在る、という実感に迫られて、信仰の問題を本気に取り上げたのは、僕らの世代からですよ。そういうことも分らずに、僕らのことを、いまどきの若い者はだらしがない、優柔不断だ、とか卑屈だとか言って、ひとり高邁がっている人は、すでに古いよ」
とそこまで話されたとき、突然何に驚いたのか、わっとかなりの大声を挙げて、腰を浮かし、テーブルの下をのぞきこまれた。私もギョッとして太宰さんの足許を見ると、いつの間に潜り込んでいたのか大きな斑猫(ハンミョウ)が、のっそり這い出して来たのであった。太宰さんは知らずにそれを踏みつけられたらしい。二人顔を見合せて笑ったが、私はさすがに太宰さんだけあって、そんなときの驚きかたも、全身的だと、感心した。
 ジョッキイを二杯ずつあけて、そこを出るとき、門口まで送って来た女中さんが、何かおあいそを言ったが、太宰さんは黙って聞き流して出られた私は後から小さくなって出ながら、太宰さんに代ったつもりで口の中で小さな声で、さよならと言った。そのすぐあとで、そんないじけてウジウジした自分の態度が気になった。太宰さんは、そんなことには無関心らしく、いま店を出るときに思いつかれたらしい、滑稽な話を何かされたが、私はいまの自分の態度にこだわって、半分うわの空で聞いていた。歩きながら、
「もう一軒」と言われた。
「いや、もう」と口の中で言って、実はそのくせついてゆきたい。私のモジモジなど見向きもせず、ズンズン歩いて、大衆食堂にはいってゆかれた。
 広い土間の上にテーブルが並び、印絆纏など着た人達が多勢いて、賑やかな活気が溢れていた。店の一角が、細長く畳敷きになっていて、朱塗りの小さい茶ぶ台が据えてある。そこにあがって向い合うと、こんどは酒を注文した。
 太宰さんの酒の飲みぶりはチビチビ味わって飲む飲みかたではなかった。私が卑屈に遠慮して、なめるようにした盃を下に置くと、あとからあとから注ぎ足し、ご自分のにもまた注いで、それをいつのまにあけるのかわからないほど、素ばやく無雑作にあけてゆかれた。私も次第にそれに慣れて、自分の盃には遠慮なく自分で注ぎ、太宰さんにも注いで上げたりして、主客の位置を忘れていった。

 

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 ふっと気がついたときは、もう相当酔っていた。熱ばんだまぶたで二つ三つ目瞬きして、周囲を見まわすと、電燈の光りが妙にけばけばしく明るかった。
 醜くきたなく、しなびた脳裏に、感傷的な涙が浮んで、私は何か非常に深刻な、悲痛な言葉を太宰さんに向って吐いてみたい衝動にかられた。それとともに太宰さんと、手に手を執って泣いてみたい。人生は寂しい。太宰さんは孤独だ。俺は今日ゆくりなく太宰さんと逢って、ここでこうして酒を飲んでいるが、あすは二人ともどうなることか。いかに愛し尊敬していても、会ったものは必ず訣れねばならぬ。そしてわかれわかれに人生の、雑踏の中に紛れこんでゆく。訣れては、また逢うことの有りやなしや。ああ二つの魂は、ついに二つの魂なのか。――まるで下手な浪花節の文句みたいな文句を頭の中でヒネくっていると、ふと太宰さんの小説に出てくるある女のことが思い浮んだ。私はそれが、たしかに実在した人だったように思えてならない。そこでいきなり、
「あの、太宰さんの小説に出てくる、海にはいって死んだ女の人、あの人のことを思うと僕は、寂しくって……」

 言いながら太宰さんの顔に眼を据えていると、私は眼に微かながら、涙を浮べることができた。そしてそのうえ、わっと泣き出したい気持でいると、太宰さんは眼を丸くして私の顔を見ていたが、
「君でさえそうだもの。ぼくはどんなに寂しいか、しれないよ」
 思いなしか、打消すような、早口であった。私は急にはっとして、触れてはならないものに触れたと、思った。
「太宰さんはあんまり優しくて、ちっとも僕を叱ってくれない」こんどは甘えて、そんなことを言った。
「君は謙遜だから、叱らないよ。君にだって、思い上がったところがあれば、僕は叱るよ」ややもてあまし気味に言われた。それから私の顔をのぞきこむようにしながら、
「君は、神の寵児だよ」と言い、私があまりのことにもじもじしていると直ぐまたれいの哄笑をされた。太宰さんがそのときどんな気持で、そんなことを言われたのかよく分らない。多分気の弱い後輩を励ますつもりでいわれたのであろう。(中略)
 なんにしても、私はかなり嬉しかった。ほかならぬ太宰さんがそういってくれるのだから、信じていいことかも知れないと、思った。発奮せずばあるべからず、という気がしたのである。
「君はランボオより、ベルレーヌが好きだろう。ベルレーヌの泣きべその顔はいいね。ランボオは、感覚だけの詩人だよ。ランボオにとて文学は、現世の野望にすぎなかったんだ。ランボオはベルレーヌのことを俗物といって軽蔑してたらしいが、その実、ランボオこそ、野心を抱いた俗物だったんだ。だから一たん情熱が涸れてしまうと。文学を投げ出して砂漠へ逃げてしまったんだ。卑怯な奴だ。そこへゆくとベルレーヌは、一生馬鹿正直に十字架を背負って、市民生活の泥にまみれて巷に呻吟したんだからね。文学は、感覚だけのものじゃない、作家の担うべき十字架ですよ。ランボオが好きだ、なんていう奴に限って、どれもこれも虚栄心の強い、思い上った奴ばかりだ。君ももしランボオが好きだったら、早く卒業したほうがいいね」
 そんなことも言われたのであった。つづいて、
「日本の作家には、六十ぐらいになって十字架に磔かるという情熱のある人はないようだね。僕は、それをやってみたい。こんな白髯のお爺さんが十字架にかかっている図は、実に気品があると思うね」
と、ひげの形を示し、両手をひろげてちょっとその真似をしてから、れいの如く、からだをゆすって笑われた。

 

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 (中略)私の背後の表のかたで、はげしい雨の音がしだした。ぼんやり見ていた太宰さんが、
「夕立はきれいだね」
といかにも無心に言われ、私も振り返って見ると狭い戸口から、白く煙る烈しい雨脚が見えた。


「僕はこうやって、雨の中を歩くのが好きなんだよ」
 太宰さんは着物の裾をまくって角帯の腰に挟むと、蛇の目傘をさして大股に歩いた。
 そしてもう一軒、カフェに寄った。(中略)
 女給がニ、三人寄って来て、太宰さんのことを先生、先生とよんだ。私の傍に坐った緑色のワンピースの女は、どういうわけかとくべつ軟らかなゴムマリか何かの感じで、満身これ性ホルモンとでもいったようであった。女の肉感そのものと言ってもいいかも知れない。私はその女をその場で抱きしめてみたい衝動を感じたが、太宰さんの手前さすがにそんなこともできず、その代りに、
「君は実に、女臭いひとだねえ!」と言ってみたが、女はただ気弱げにニヤニヤするだけであった。こんどは、
「僕、徳大寺伸に似てるだろう。もとは、もっとよく似ていたんだが、いまはもう年のせいで、だいぶダメになっちゃったけど……」
とふざけて言った。徳大寺伸は、当時スクリンで売出しの、二流どころの二枚目だった。すると女たちよりも太宰さんが、いかにもおかしそうに、それこそほんとにころげるように笑いだされた。その日の太宰さんの笑いのうちで、一番心からおかしそうな笑いであった。私のぎこちないユーモアのうちでそれだけが、ただ一つ成功したらしかった。一つはその徳大寺という名について、太宰さんに何か滑稽な記憶があったのにもよるらしい。
 私があまり酔って帰ると母に叱られるということを、話のうちに思わず漏らすと、そのあとで太宰さんは、
「君に花を贈ろう」と言い残して、さっと店を出てゆかれた。後にのこされた私はバツがわるく、店の中を見まわしていると、一番隅のほうのテーブルに、いかにもみすぼらしいなりをした五十恰好の爺さんが、誰にも構われずひとりぼっちで、ときどき何か鼻唄を低くうなってみたりしていた。相当酩酊の様子である。汚ない古ぼけた下駄を穿いていて、足にべったり泥がついていた。酔眼を据えてその足を睨んでいると、
 ――なんぢら互いに足を洗え。
という聖句が浮び、太宰さんが花をくれるというから、そのお返しをする代り、俺も誰かに奉仕しよう。よしこれだ、と酔った頭で考え、私はふらりと立ち上がると、そろそろと爺さんの傍に近づき、その足許に(つくな)みこんでハンカチを執り出し、泥足をていねいに拭いはじめた。爺さんは、ビクッと足をちぢめて、ひどく恐縮そうな声を出した。それにはお構いなしに、拭うだけ拭うと、また元の席へ戻った。ペテルブルグの広場でラスコーニフが、大地に接吻したように、俺はこの親爺の足を拭くのだ。……そんな考えも、頭の中にあったのである。ちょうどそのとき太宰さんが、元気よく店に飛び込んで来た。手に二つの花束を持っておられた。一つは白い百合の花で、それはその店へ遣られた。いま一つは赤いなでしこの花で、それを私の手に渡すと、
「これを持っていって、お母さんを欺しちゃえ」と言われた。真白い筒型の紙に包まれて、瑞々しい濃緑の葉の中に暗紅色の眼の醒めるような花が、いくつもいくつも、いきいきと星屑のように輝いていた。葉も花も、いくぶん雨のしぶきに濡れて、そのためによけい瑞々しく見えた。

 

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 やがて太宰さんの傘に私もはいってドシャ降りの外へ出ると、太宰さんは私が中野の駅から家までゆくのに困るだろうから、傘を買ってやると言いだした。私が黙ってついてゆくと、電燈の煌々とついた傘屋があり、太宰さんが傘を注文したとき、私が横から、
「一ばん安いのでいいんです、ニ、三十銭ぐらいのはない?」と出まかせに言うと、白いエプロンをかけたお内儀さんが、
「はい。二、三十銭のですか」と笑って、番傘を一本探し出してくれた。いくらであったかは知らない。
 広場へ出て、バリバリひらくと、プンと油のにおいがした。
「どうだ、いい匂いだろう」
 太宰さんが横からのぞきこむようにして言われた。
「ええ、油の匂い……」と答えた。
 改札口の前で手を出された。とても大きな手のように見え、自分のかぼそい薄っぺらな手を出すのが、恥ずかしかった。思い切って差し出すと、固く握られた、ほん気かな、という想念が閃いて、二度三度握り返すと、そのつど一層固い手ごたえがあった。もはやその誠意を疑うことはできない。
 片手に唐傘、片手に花束を持って、人混みにまぎれ改札口を通ると、太宰さんはうしろから乗り出すようにして、
「北海道はいいぞ。北海道はいいぞ」と、大声に言われた。
 家に帰ると、玄関まで出て来た母に花束を渡して、太宰という小説家から貰って来たのだと吹聴した。
「これを持っていって、お母さんをだましちゃえ」と言われたことまで、玄関先で大声に話した。母はさすがに呆れたような声を出したので、母に太宰さんを悪く思わせては、済まないと思った。寝床にはいると、私はさきほど太宰さんと一緒にいる時から、今にかけて、自分がこれまで経験したこともないほど、軽々とした気分でいることに気がついた。
 生死を忘れていたからだ。――そんな答えも出してみた。自らの生死を、思い煩う必要もないほど、私はひととき太宰さんに頼り切っていたのである。負ぶさり切っていたのである。太宰さんの傍にいる限り、そして太宰さんがよしと言われたことである限り、すべては神の意に適うのだと、信じているようなところもあった。そして、そう考えても、あながち誇張であるとは思えなかった。

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 【了】

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【参考文献】
・菊田義孝『太宰治と罪の問題』(審美社、1964年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・公益財団法人三鷹市スポーツと文化財団 編集・発行『平成三十年度特別展 太宰治 三鷹とともに ー太宰治没後70年ー』(2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「群系ホームページ
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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