1月22日の太宰治。
1934年(昭和9年)1月22日。
太宰治 24歳。
東京市杉並区天沼一ノ一三六 飛島方より
東京市中野区上高田二六七 山之内努方 久保隆一郎宛
前略
十八日朝より発熱。十八日夜、四十度突破。十九日、二十日にいたるも熱さめず。今官一へ速達で二十日会出席できぬわけを諸兄に伝えてくれるようたのんだが、今官一、また、十八日より発熱、臥床の由。
二十一日熱さがる。二十二日ぶらぶら部屋のなかを歩く。この日より女房また発熱。
太宰と久保隆一郎の交遊
ハガキの宛先、
■久保隆一郎
久保と太宰との出会いは、1933年(昭和8年)4月初旬の少し曇った日の夕暮れで、久保と同郷(愛媛県宇和島市)の
太宰は久保に、「キミ、ぼくの所へ遊びに来たまえ」と言って、その時に住んでいた天沼三丁目の住所を教えます。
2、3日後、久保が太宰の家を訪ね、それから度々会うことになりました。久保は、「酔うにつれて話の中に詩のような気分が出てくる」太宰の人柄に魅力を感じていました。ちなみに、この訪問時、太宰は風邪による発熱で寝ていたため、会わずに持参した本2冊と短い自作の詩5、6篇を置いて帰ったそうです。
次に久保が太宰を訪ねた日は、森鴎外、泉鏡花、芥川龍之介、外国の作家と、いろいろな作家の話題が出ました。太宰は、ロシアの詩人・プーシキンの『オネーギン』の一節「生きることにも心せき、感ずることも急がるる」と繰り返し言ったそうです。
「傑作一つ書いて死にたいねえ」という言葉も、太宰はよく久保に話していたそうですが、この言葉は久保以外には話していなかったようです。
同年秋頃から、太宰は、久保、今官一、中村地平、伊馬春部、北村謙次郎と「二十日会」という会合を始めます。ハガキに出て来る「二十日会出席できぬ」というのは、この会のことです。
二十日会では、月に1回集まって自作を読み合い、文学を論じ合いました。この会合は、この後1年近く続き、同人雑誌「青い花」発行の母胎となります。
太宰と久保の交遊は、終戦直前まで続きました。
【了】
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【参考文献】
・『太宰治全集 11 書簡』(筑摩書房、1999年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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