8月16日の太宰治。
1943年(昭和18年)8月16日。
太宰治 34歳。
『ユダヤ人実朝』事件
太宰は、鎌倉幕府第3代征夷大将軍の源実朝に対し、並々ならぬ熱い思いを抱いており、「必ず一度は書いて死にたい」と、実朝についての作品を書くことを熱望していました。
■源実朝像(『國文学名家肖像集』)
1943年(昭和18年)1月末頃、太宰は、念願していた『右大臣実朝』の原稿に着手。苦心しながらも稿を継ぎ、同年3月末日に303枚を脱稿しました。太宰の妻・津島美知子は『回想の太宰治』で、
「実朝」は三鷹と甲府で書いた。三鷹のわが家に、「実朝」であけくれた「実朝時代」とでもいうべき時期があった。一本気の人だから、寝ても覚めても「実朝」で頭がいっぱいになってしまうのである。
と、太宰が『右大臣実朝』執筆に熱中する様子を回想しています。この「実朝時代」については、1月31日の記事でも紹介しています。
書下ろし中篇小説『右大臣実朝』は、1943年(昭和18年)9月25日付で、錦城出版社から「新日本文藝叢書」の1冊として刊行されました。
太宰は、この刊行前、同年4月1日付発行の「文学界」四月号に『鉄面皮』、翌5月1日発行の「新潮」五月号に『赤心』と、実朝についての作品を発表しており、このことからも「寝ても覚めても『実朝』で頭がいっぱい」だった様子が伺えます。
そして、今回紹介するのが、「『ユダヤ人実朝』事件」。『右大臣実朝』刊行の約1ヶ月前に起こった、『右大臣実朝』にまつわる事件です。
この事件は、大陸の戦場から帰還した「日本浪漫派」に関係のあった若い人(「日本浪漫派」同人で、ドイツ文学者の朝倉保平か?)の帰還歓迎会での出来事が発端になりました。
それでは、「『ユダヤ人実朝』事件」について、太宰の親友・檀一雄の『小説 太宰治』から引用して紹介します。
■檀一雄
朝倉某君の帰還歓迎会が、銀座の料理屋で催されたのは、確か昭和十七年の夏の頃であったと記憶する。朝倉君は芳賀檀氏の愛弟子であり、私も高橋幸雄等を通じてよく知っていた。
当時の参集者は、例の通り大体、中谷、芳賀、保田、高橋、私等浪漫派同人達で、冗談を混えながら、とりとめのない雑談に耽っていた。さて、その席上で、たしか芳賀檀 氏であったろう、
「太宰君が、ユダヤ人実朝という長篇を書いたそうで」
と、そう云ったので、その場はどっと笑い崩れた。しかし敬愛する同志のことだ。誰も他意があったわけではない。全く他愛なく腹を抱えて笑ったばかりである。
■芳賀檀 (1903~1991) 評論家、ドイツ文学者。ドイツ留学から帰国後、保田與重郎、亀井勝一郎らの雑誌「日本浪漫派」の同人として活躍した。
私はとうとう太宰の「実朝」が出来上がったのかと、その実朝のおおよその輪郭を知りたい思いに駆られた。しかし随分思い切った諷刺にしたものだ。ユダヤ人実朝とは一体どんな小説だろうかと、私はいぶかった。
その夜はそれで散会し、それから十日あまりも立った日のことだったろう。
中谷孝雄氏の処へ出掛けてみると、
「困った、困った」
と、云っている。
「実はこれなんだがね」
と、中谷氏は部厚い封書を取り出した。差出人は太宰である。
■中谷孝雄(中央) 左は梶井基次郎、右は外村繁。三高時代の写真。
「いいのかしらん、中を見て」
「偉いことや、見てごらん」
開いてみると、中は一杯にクシャクシャ書き込まれた、太宰の文面だ。
「あなたを刺す」とか「決闘する」とか「一家五人を抱へて路頭に迷ふ」とか、懊悩と激昂がこもごも交り合った無茶苦茶な手紙だった。文意を綜合すると、大体こんなことのようだった。
「私は忠良な日本臣民だ。この間は南方への徴発を受け、胸が悪いのでそれにもゆけなかった。私は弱い身体を引摺って、五人の家族を飢えさせたくなく、書けない小説を無理に書いている。まあ忠良な一臣民と云えるでしょう。その忠良なる日本臣民が、実朝という忠節に厚い一詩人を描こうとしたのに、これを故意にユダヤ人実朝だと誹謗した男がある。この真相は是が非でも確かめなければならない。まず芳賀檀氏宛に奮然と抗議の手紙を出した。芳賀檀氏から折り返し鄭重な返事が来て、どうも当夜の記憶ははっきりしないが、誰か中谷氏かまたは芳賀氏と中谷氏と私の間をチョロチョロ歩き廻る男が云ったように記憶する、と云ってきた。この男は情報局や大政翼賛会にも出入りをしているそうだ。で、この男が云ったのなら論外だが、もし貴下が云われたのなら、はっきりとそう云って欲しいことである。繰り返すように、私は一家五人を背負ってその日の米銭にも窮しながら小説を書いている、哀れな文士だ。私の小説を誹謗し、また情報局や大政翼賛会あたりへ、コソコソと告口をして、作家の一生を屠 る者があるのは、生かして置けない。明瞭に事態をあかしてくれないか」
大体こんなことが、泣くように、また恨むように、例の太宰調で綿々と述べられていた。
「この芳賀さんと中谷さんと太宰の処をチョロチョロ歩き廻る男というのは誰だろう。僕のことかな? しかし、芳賀さんがそんな表現を使うかしら」
と、私も不愉快で中谷氏に聞いてみた。中谷氏は爪を噛み噛み、
「どうも君らしくとれるね。他に考えれば高橋幸雄君ぐらいかな」
「そういうことなんだろう?」
「さあ分らない。太宰君が何か途方もない考え違いをしているにちがいない。近頃の情報局辺りの行き方に、ひどく押えつけられるような気持を持っているのだろう。そうしてそれが何か周囲の人々の策動にでもよると考えているのじゃないかね。とにかく太宰君が十七枚のこんな手紙を寄越したんだから、僕も十七枚返事だけは出しておいた」
「中谷さん。よかったらこの手紙貸してくれませんか。僕は直接太宰の処に行って聞いてみる。行ってみれば分るでしょう」
私はその手紙を懐に入れて三鷹の太宰の家に急いで行った。
幸い太宰は在宅している。案内を乞う、太宰はどきどきした様子で顔を出した。
「上らない?」
「ああ」
と、私はすぐ上った。しかしこの太宰があんな手紙を書くはずがない。やっぱり誰か他の人のことを云っているのだろうか、と、私もしきりに不思議だった。
「実はね、中谷さんところに君の手紙が来ていて、僕は今読ませられたところなんだ。ほらこの手紙」
と、太宰は心持ち頬を染めながら肯いた。
「僕は君の云うこのユダヤ人実朝という話を、発端から知っているんだが、だれも他意があって始ったことではないんだよ。僕はよく知っている。君は誰から聞いたか知らないが、ユダヤ人実朝という言葉が朝倉の歓迎会で云われはしたが、むしろその場の座興か、君への親愛だったと思うなあ。その場に君が居合わせなかったので当時の状況は、君には呑み込み難いかも分らないけれど」
「うむ、うむ」
と、太宰は相変らず肯いている。
「それからね。この手紙の中に書かれている中谷や芳賀や君の処をチョロチョロと歩き廻る男というのは、僕のこと?」
「いや、違う。全然違う。他にあるんだ」
「でも読んでみると、僕としか思えないよ。第一、大井君の紹介で大政翼賛会に這入っているし、平野君が情報局だから、僕は現代文学の同人会で時々会っている」
「いや、違う。君じゃない。君なら君宛に手紙を出すさ。出掛けて行ってもいい。平野君は僕も知っているよ」
「じゃね、この手紙は君に返しておくから、もし未だ不可解なことがあったら、僕で済むことなら僕に聞いてくれないか」
「うむ」
と、太宰は急いで中谷氏宛の手紙を受け取りながら、懐にねじ込んだ。
「そうして一体誰なの? 君の処にそのユダヤ人実朝のことを報告したのは」
「高橋幸雄なんだ」
「高橋幸雄? じゃよく状況を知っているはずなんだがな」
「もういい。何でもないんだ。水に流す」
と、太宰は云っていた。
「水に流すも何もないことだよ。僕は、何も事があったとは思わないな。どうしても君の思い過しだと考えられるんだ」
「いいんだ、いいんだ。君じゃない。それははっきり云う」
「僕じゃない、誰かだということじゃないんだ。全く君の心配するような出来事は起っていない。ユダヤ人実朝という言葉が不用意に朝倉の席上で云われただけなんだ」
「わかった。もうそれだけでいい、飲もう」
と、私達は出掛けて行って飲んだが、どうも太宰の妄想ははらえないようだった。
この事件はこれだけのことである。私は太宰が一体どんなことを考え、どんな悲哀を味わったか知らない。繰り返しユダヤ人実朝事件と書いているから、この出来ごとの心理的な打撃は大きかったに相違ない。しかし、私はおそらく太宰の陰鬱な時期にくる脅迫観念が主題だったろうと思っている。
中谷孝雄氏は穿った事を云っていた。ユダヤ人実朝と芳賀氏が云ったのは、(芳賀氏は否定しているから、まあ、中谷氏や僕が云ったとしても差支えはないが)多分亀井氏または当の太宰から、
「うだいじんさねとも」
が東北訛りで、
「ユダヤじんさねとも」
と、いうふうに発音されていたのだろう。いや、そういうふうに聞きとられた。それを聞いた芳賀氏ないし中谷氏ないし僕が、
「ユダヤ人実朝」
と云ったわけである。そんな結論に到達した。これだけの出来事である。ただこの出来事がちょうど日本主義、最盛期の頃で、古い友人達がすべてこの主潮の主体をなしていたから、気弱く、情なく太宰は滅入りこんでしまっていたわけだろう。
■太宰と友人・亀井勝一郎(1907~1966) 亀井は、北海道函館区(現在の、函館市)元町の生まれで、旧制函館中学校(現在の、北海道函館中部高等学校)から旧制山形高等学校(現在の、山形大学)を経て、東京帝国大学文学部美学科に入学した。
【了】
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【参考文献】
・檀一雄『小説 太宰治』(岩波現代文庫、2000年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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