8月18日の太宰治。
1926年(大正15年)8月18日。
太宰治 17歳。
夏休みに入って、
太宰、中学4年の夏休み
1926年(大正15年)、太宰が、青森県立青森中学校4年生の時です。
中学校が夏休みに入り、小説『津軽』に登場する太宰の親友「N君」のモデル・
当時の太宰は、芥川龍之介に心酔し、芥川と同じ第一高等学校(一高)、東京帝国大学という進学コースを目指し、熱心に勉強していたといいます。
東京美術学校(現在の東京藝術大学)に進学し、夏休みで帰省していた三兄・津島圭治は、太宰の熱心な姿を見て、同級生の親友・
■飛島定城と妻・多摩 新婚の頃。飛島は、東京帝国大学を卒業した後、東京日日新聞(現在の毎日新聞社)へ入社して社会部の記者に。同じ五所川原出身の佐々木多摩と結婚した。1931年(昭和6年)撮影。
飛島によると、太宰は「紺がすりを着て、目に妙な人なつこさを持って」いて、「本当に少年らしい少年の純真さ」で種々質問してきたと回想しています。
飛島の娘・飛島蓉子が、父母から繰り返し聞かされたという太宰の話をまとめたエッセイ『誰も知らない太宰治』には、飛島と太宰の初めての出会いの場面について、次のように書かれています。
その頃の太宰は、素直でよく勉強をする真面目な少年であった。父は英語や数学など、いろいろな科目を教え、太宰はそれは熱心に父の話を聞き、勉学に励んだ。やがて、太宰は無事に弘前高等学校へ入学することができた。
俄 家庭教師になった父を太宰はひどく気に入ったようで、以来兄のように慕うようになった。
1930年(昭和5年)に弘前高等学校を卒業した太宰は、東京帝国大学へ進学。上京した太宰は、圭治の家のすぐ近くにある、常盤館という学生相手の下宿屋に住みました。東京で、圭治、飛島、太宰の親交はさらに深まりました。
しかし、太宰上京の約3ヶ月後、圭治は病死してしまいます。死因は「肺結核兼尿路結核症」といわれています。享年27歳でした。圭治の死については、6月21日の記事で紹介しました。
慕っていた三兄・圭治の死は、太宰にとって、大きな衝撃だったでしょう。圭治の死後、太宰は何かにつけて、飛島を頼りにするようになりました。
さて、太宰の夏休みに話を戻します。
三兄・圭治の提唱で、同人雑誌の発刊を企画します。圭治と太宰が中心になり、それぞれ仲間を誘いました。
■太宰の中学時代 左から、テイ(叔母・キヱの次女)、太宰、母・
参加同人は、圭治関係で、一戸正三、夢川利一(津島圭治)、八木隆一郎、槙島真三(高橋堅太郎)、柳田郁朗(泉谷清一)と、太宰関係で、金室雅楽(桜田雅美)、中村貞二郎(中村貞次郎)、辻島衆二(津島修治)の8名で、出資者は長兄・津島文治。
圭治は当時、夢川利一のペンネームで、東京の同人雑誌「十字街」(1926年(大正15年)1月1日付創刊、東京市外野方村上沼袋53、教佑社書店発行)に加わっていました。ペンネームの「夢川利一」は、作家「横光利一」に
■青森中学3年時 左から、太宰、弟・礼治、中村貞次郎
この頃、太宰は、同人雑誌「
「青んぼ」は、1926年(大正15年)9月1日付で、創刊号を発行。編集兼発行人は、津島圭治。表紙やカットも、全て圭治が担当。発行所は、「青森県金木町本町 青んぼ社」でした。
太宰は、辻島衆二のペンネームで『口紅』『埋め合わせ』を、圭治は、夢川利一のペンネームで『初秋の哀唱』を、出資者の長兄・文治も、太宰に口述筆記させたエッセイ『めし』を寄稿しました。
「青んぼ」は、圭治の上京により、第二号(翌10月5日付発行)で廃刊となりました。
【了】
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【参考文献】
・『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』(新潮社、1983年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・飛島蓉子『誰も知らない太宰治』(朝日新聞出版、2011年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・公益財団法人三鷹市スポーツと文化財団 編集・発行『平成三十年度特別展 太宰治 三鷹とともに ー太宰治没後70年ー』(2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※画像は、上記参考文献より引用しました。
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