8月19日の太宰治。
1942年(昭和17年)8月19日。
太宰治 33歳。
八月下旬、石原明が、
義弟の下宿、見つかる
今日、紹介するのは、7月21日の記事で紹介した、太宰の妻・津島美知子の弟、太宰にとっては義弟にあたる、石原明の下宿探しの顛末についてです。
前回の記事では、太宰が弟子・
それでは、最初に、1942年(昭和17年)8月19日付で、戸石に宛てて書かれた手紙を引用します。
東京府下三鷹町下連雀一一三より
仙台市東十番丁一ノ一
戸石泰一宛
お変りないか。私は、八月一ぱいで、一ついい短篇を書こうと思って、緊張したり、絶望したり、まあ、とにかく努力しています。
れいの義弟から同封のような葉書がまいりましたが、どうしたらいいのか、知らせて下さい。なんだか手続きがむずかしいようですが、でも戸石泰一氏の顔を以ってしては難なく入舎できるのではないかとも考えられますし、とにかく、適当に御配慮ねがいます。俗事で御手数をかけるのも心苦しいのだが、弟も他にたよる友人が無い様子だから、まあよろしくたのみます。
九月になったら確実に入舎できる当 がありましたら、弟も、それまで待つだろうと思います。
とにかく、どうしたらいいか、弟の下宿の池袋なり、また三鷹へでも、どちらへでも、御指南下さい。私には、かいもくわからない。最適と信じられる方法を、どうか、たのみます。
私は箱根に行って来ました。昨夜、帰ったのです。東京も、もう涼しい。ことしの秋は、例年になく大事な秋のような予感がする。「実朝」も、いよいよことしの秋からはじめる予定。戸石も就職するし、いろいろ変った事があるね。では、また。お元気で。
宿舎の件、ごめんどうでも、よろしく。
太 宰 治
戸 石 様
この時点では、手続きが上手くいっていないようで、太宰は戸石に助けを求めています。手紙の宛先を見ると、「仙台市」となっているので、戸石は故郷の宮城県仙台市に帰郷していたようです。太宰は、「とにかく、どうしたらいいか、弟の下宿の池袋なり、また三鷹へでも、どちらへでも、御指南下さい。私には、かいもくわからない」と、完全にお手上げ。こういった手続き関係は、苦手のようです。
ちなみに、「私は箱根に行って来ました」とは、8月13日の記事で紹介した、箱根に滞在して『花火』を執筆したエピソードのことです。
さて、それでは、最終的に明は、下宿を見つけることができたのか。明の回想記『義兄太宰治とその周辺』から、その前後の上京も含めて引用して紹介します。
昭和十六(一九四一)年私は東大の物理に入学し、目白の親戚の家に下宿した。間もなく姉が出産したのでその親戚の方とお祝に行った。姉は未だ十分体が回復して居なかったので、這う様にして台所に行きお茶を入れてくれた。赤ん坊の名前を聞いた時、私は姉が好きだったピアニストの井上園子にあやかった様な気がした。
その時は太宰は生憎不在であったが、後日東大の三四郎の池のほとりで山岸さんと坐って居る彼に偶然出会った。私は実験着を着て居たので、太宰は「科学者みたいだ」と言った。一方私は着物姿の彼が文学者的で頼もしい印象を受けた。酒気がなく、文学の話をして居たからかと思う。
その十二月日本は大東亜戦に突入し、大学は二年半に短縮され忙しくなった上に、私は転居せねばならなくなった。それで顔の広い太宰に相談した処、「散華」に出てくる戸石さんを通じ大学前の寮に入れて貰えて有難かった。
昭和十八(一九四三)年九月に卒業する事になった私達には兵役の義務が待って居た。私は海軍の短期現役技術将校の道を取り、希望した横須賀の航海学校に配属された。それで三鷹には割に頻繁に尋ね、専ら配給された酒と煙草を持参した。然しそれも長続きせず翌春には江田島の海兵に転勤を命ぜられた。
その夏姉は第二児出産の為甲府に里帰りし、太宰は奥の間で「津軽」や「新釈諸国噺」を書いた。「津軽」の歴史的地理描写に甲府の家の本類が参考になった事は言う迄もない。
■石原家の人びと 前列左から、太宰、義母・石原くら、中列左から、義妹・石原愛子、美知子、義姉・石原富美子、後列が石原明。1939年(昭和14年)撮影。
【了】
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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
・『太宰治研究 7』(和泉書院、2000年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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