記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】8月23日

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8月23日の太宰治

  1935年(昭和10年)8月23日。
 太宰治 26歳。

 八月下旬、鰭崎潤(ひれざきじゅん)が、小舘善四郎に誘われて船橋に訪れた。
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鰭崎潤(ひれざきじゅん)と「聖書知識」

 1935年(昭和10年)8月下旬頃、鰭崎潤(ひれざきじゅん)が、太宰の義弟・小舘善四郎に誘われて、船橋の太宰宅を訪れました。鰭崎は、小舘、久富邦夫などと、帝国美術学校(現在の、武蔵野美術大学)西洋画科に1932年(昭和7年)4月入学した同期で、太宰も親しかった青森出身の版画家・根市良三文化学園美術部在籍)とも親しく交際していました。
 また、太宰との交流は長く続き、1939年(昭和14年)に、三鷹での新居捜しをしたのも鰭崎でした。

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船橋の太宰宅

 鰭崎は、1930年(昭和5年)4月頃から、キリスト教無教会主義の伝道者で、新約聖書研究科の塚本虎二が主催する、無教会派の丸の内会場ビルでの日曜集会に参加していて、太宰宅を訪問した頃には、キリスト教信仰を受け入れていたそうです。
 船橋の住居には二度訪れ、初訪問時には檀一雄、2度目の時には山岸外史に会っています。

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■太宰、山岸、檀 3人は「三馬鹿」と呼ばれていた。

 船橋時代から、キリスト教についてよく話題にしていたそうですが、このとき鰭崎は、無教会的聖書研究誌「聖書知識」(塚本虎二主宰。1930年(昭和5年)1月創刊、1963年(昭和38年)6月終刊。毎月一回、1日付発行)を持参していました。
 この「聖書知識」について、太宰の妻・津島美知子が『回想の太宰治で触れているので、引用して紹介します。

 太宰が進んで代金を支払って定期購読者になった雑誌は、無教会派の月刊誌「聖書知識」だけである。これは鰭崎潤氏の影響に依ったのであろう。
 鰭崎さんは小舘善四郎氏(太宰の姉の嫁した青森の小舘家の四弟)の美術学校時代の友人で、小舘さんに誘われて太宰の船橋の家を訪れたこともあったが、太宰が三鷹に住むようになってからは小金井在住の鰭崎さんと大変近くなったので、始終来訪されるようになり、昭和十四、五年頃にはわが家への最も頻繁な来客であった。もう一人鰭崎さんほど頻繁ではなかったが、同じ仲間の西荻窪の久富さんとも往来があった。「リイズ」は久富さんのご家庭の印象からヒントを得ている。この方々の共通点は富裕な家庭の子弟で、まだ気楽な部屋住みの身の上であることで年齢は太宰より四、五歳年下であった。
 鰭崎さんはいつも大きな貴重な画集を携えてきて見せてくださり話題にされた。といっても鰭崎さんが、ほとんど一方的に熱っぽく講義口調で何時間でも論じられるのであって、太宰はもっぱら聞き役に廻っていた。元来しらふのときは口少なの人であった。むさし野の陽が傾きかけると連れ立って家を出て、井之頭公園を散策して、池畔の茶店に憩うてビールが入ると、話し手、聞き手の役割は逆転したことだろう。
 鰭崎さんは堅い信仰を持つ方で、月刊の「聖書知識」が発行されると持参してくださり、太宰はその話を聞き、借りて読んでいるうちに、購読者になることを決めた。「聖書知識」が届き始めたのは、昭和十五年からではないかと思う。そしてまた些細なことにこだわって購読を中止した。

 

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 それは何時のことかはっきりしないが(同誌の巻頭言で、無教会派の主宰者塚本虎二氏が、山本五十六元帥の戦死に言及しておられるのを読んだ記憶があるから、私のその記憶が正しければ、昭和十八年春より後になる)、同誌編集子から印刷した往復はがきで、「購読者名簿整理の必要上、各自、各項目に記入して返信するよう」にとの照会があった。
 何年前からの愛読者であるか。
 自分が購読者として、上、中、下、どの中に入ると思うか。
 自ら評価して記入せよというような内容であった。
 その問い合わせが癇に障って、向かっ腹を立てた太宰は、「十年来の読者なり。最低の読者なり。以後購読の意志無し」と書き入れて返信し、それきり絶縁してしまった。
 この返信はがきは太宰の歿後、塚本先生から、太宰に師事していたクリスチャン佐々木宏彰氏に送り与えられた由で、私はそのはがきを見せていただくことを佐々木氏にお願いしたが、見当たらないとのことで叶えられなかった。太宰治でなく戸籍名で津島修治の署名がしてあったらしいが、その返信を確認しての上ではないから、上記の項目など、事実そのままではないかもしれない。
 佐々木氏の回想によると、塚本先生は太宰の返信はがきに「このはがきで見ると、几帳面な人らしい」と朱筆で添え書きし、同封の手紙に「『聖書知識』を続けて購読していたら、太宰さんも終りはあんな事にならなかったろうに、惜しかった」と書かれていた由である。
 太宰がまだ「聖書知識」を購読していたころ、対座している佐々木氏に、太宰は時折同誌のある箇所に爪で印をつけて渡し、そこのところに特に注意を促した。また佐々木氏は私費で自作を印刷物にして知友に配っていたが、その印刷物を貰うと太宰は――ひきかえにこれをあげよう――と言って「聖書知識」を渡した。
 佐々木氏は、富士見町教会に籍があったが、ある日曜日、丸ノ内の郵船ビルディングのホールで催される無教会派の集会に出席して、塚本先生の風貌に接し、「ロマ書」の講解を聴いた。それはいわば太宰に慫慂(しょうよう)されて、一足先に出かけたようなものであった。太宰に早速その模様が伝えられたことは言うまでもない。太宰は内村鑑三の高弟、塚本虎二という方に心を動かされていながら、ついにお会いすることもなく終った。
 あるとき私は乳のみ子に乳を含ませて寝かしつけながら、「聖書知識」を読んでいた。枕もとの縁側を(かわや)に行く太宰と視線が合った。わるいところを見られたと悔んだことが忘れられない。


女の決闘」のしめくくりに「牧師さん」が登場する。牧師さんといえば、いつも黒っぽいスーツを着てまじめで、苺の苗を持ってきて植えてくださった鰭崎さんの姿が浮かぶけれども、鰭崎さんは「牧師」ではない。
 鰭崎氏、佐々木氏のほか三鷹時代の彼の周囲にはクリスチャンが大勢いたが、教会や牧師とは全く無関係であった。

  鰭崎や、太宰と聖書については、2月16日の記事でも紹介しています。

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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