8月24日の太宰治。
1943年(昭和18年)8月24日。
太宰治 34歳。
戦後の太宰と師匠・井伏鱒二
1943年(昭和18年)8月24日、太宰は師匠・
■井伏と将棋を指す太宰 1940年(昭和15年)、井伏宅にて。
太宰は、1923年(大正12年)、青森県立中学校1年生の時に、初めて井伏の作品に触れて、「埋もれたる無名不遇の天才を発見した」と大変感銘を受け、7年後の1930年(昭和5年)5月中旬、念願の井伏との初対面を果たしました。初対面の様子については、5月19日の記事で紹介しています。
井伏と太宰は初対面以降、師匠と弟子として親交を深め、20年近く交遊してきました。しかし、太宰は、1948年(昭和23年)6月14日に、愛人・山崎富栄と玉川上水で心中自殺した際、その遺書に「井伏さんは悪人です」と記しました。
戦後、太宰と疎遠になったという井伏。2人の間にどんな変化があったのか。
井伏のエッセイ『太宰君の仕事部屋』を引用して紹介します。
戦後、私は太宰君とあまりつきあいがなかった。今でも覚えているが、私が東京に転入してから太宰君に逢ったのは三回だけである。
当時、太宰君は私に対して旧知の煩わしさを感じていた。おそらくそうであったろうと思っている。結局、私の方からもなるべく太宰君を避けていた。概して気の弱い人は、新しく恋人が出来たり女で苦労したりしているときには、古い友人を避ける傾向がある。しかし当時の私は、太宰君が女で苦労しているとは知らなかった。ただ何ということもなく、可成りの程度に私を避けていると思っていた。
以前、私が疎開するよりも前に、太宰君が私に、「僕は恋愛してもいいですか」と云ったことがある。ちょっと様子が改まっていた。しかし恋愛しては悪いと云う意気は私には無い。「そんなことは君の判断次第じゃないか」と答えると、「やっとそれで安心した」と云った。その恋愛の相手は、私のうちの近所に住んでいる某出版社編輯部の某才媛だとわかっていた。後に太宰君が亡くなってからの話だが、その某才媛に太宰君のことを打ちあけると、「もしわたくしでしたら、太宰さんを殺さなかったでしょうよ」と冗談のように云った。人の組合せというものは不思議な結果を生む。善良な男と善良な女との組合せでも、お互に善良な故に悲しい結果を見ることがある。太宰君の場合、太宰君を死地に導いた女は善良な性質であったかも知れないが、どうも私たち思い出すだに情けない結果になってしまった。ここで仮にその女性を善意ある人間であったとすると、何か当時の雰囲気に引きずられたのではなかったかと思う。意地ずくと云っては当人は不承知だろう。ものの弾みと云ったらどうだろう。青山二郎作詞の都々逸に、「弾みで野暮が粋になり、何とか何とかで、弾みで粋が野暮になり」というのがある。しかし太宰を死なした女性に、この青山二郎の作った歌を当てはめるのは、正直に云って腹立たしいような気持もする。
■山崎富栄
初めて太宰君は、その女性を私に紹介するとき、「この部屋は、この女の借りている部屋です。僕は仕事部屋に借りているんです」と云った。戦後、久しぶりに初めて太宰君に逢ったときのことである。その席には古田晁や筑摩書房の石井君がいたが、太宰君は私たちをこの仕事部屋に迎えるのに煩わしい工作をした。先ず石井君が私のうちに来て、「今日は、太宰さんに逢って下さい。行くさきは三鷹の某所です」と云って、私を三鷹の若松屋という屋台店に連れて行った。すると若松屋の主人が「お待ちしておりました。今日は太宰先生が張りきってる日です。慎重に御案内します。暫くお待ち下さい」と云って自転車でどこかへ駆けだして行き、四十分の上も五十分の上も待たしてから、私たちを近所の長屋の二階に案内した。その部屋に太宰君がいて、小がらの女が壁際の畳の上に
爼 を置いて野菜か何か刻んでいた。室内の様子と庖丁の使いかたとで、この女は世帯くずしだろうと私は見た。
間もなく、若松屋の主人がそこへ古田晁を連れて来て、やがて臼井吉見を連れて来た。なぜ太宰君がそんな煩わしい手数を取らせるのか、理由がわからない。若松屋の主人は一心太助だと自ら云い、実によく自転車でまめまめしく行ったり来たりするのだが、太宰君がこんなに商人をうまく手なずけているとは意外であった。私は腑に落ちないままにビールの御馳走になりながら用談を片づけて、その後からまた酔いつぶれるほどビールを飲んだ。
用談というのは、筑摩書房から出す私の選集編纂の打ちあわせであった。私はその席で初めて気がついたが、私が東京に転入する前に太宰君は私のために古田晁に交渉して、私の選集九巻を出すことにしていたのであった。転入に立ちおくれて田舎にいた私のために、ずいぶん気をきかせてくれたのである。太宰君の心づくしであった。しかし、どうしてあんな滑稽なほど煩わしい訪ねかたをさせたのか合点が行かぬ。いろんなことに気をつかい、ユーモアを出すつもりであったかもわからない。
■太宰と井伏 杉並区清水町にて、「小説新潮」のグラビア撮影に臨む。1948年(昭和23年)、撮影:北野邦雄。
疎開していた師匠・井伏が東京へ戻って来るのに合わせ、太宰は筑摩書房に『井伏鱒二選集』全9巻の刊行を打診。太宰は選集全ての巻末に「後記」を執筆する予定でしたが、第4巻の「後記」を執筆した時点で亡くなってしまったため、第5巻以降の「後記」は、太宰も参加していた「阿佐ヶ谷会」のメンバーでもある
『井伏鱒二選集 第三巻 後記』について、4月7日の記事で紹介しています。
「東京に転入してから太宰君に逢ったのは三回だけ」という井伏。井伏の何が、太宰に「井伏さんは悪人です」と言わしめたのでしょうか。
【了】
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【参考文献】
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・井伏鱒二『太宰 治』(中公文庫、2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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