記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】8月27日

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8月27日の太宰治

  1944年(昭和19年)8月27日。
 太宰治 35歳。

 この年六月二十七日に同年齢の三十六歳で逝去した津村信夫を悼んで秋に出版の計画であった私家版『津村信夫追悼録』のために、「郷愁」を執筆したが、この追悼録は未刊に終わった「郷愁」は、「毛呂文藝」第十号(昭和二十五年八月付発行)で「(未発表遺稿)」として、新井尚「『郷愁』に就いて」と共に初めて公表され、近代文庫版『太宰治全集第十六巻』(創藝社、昭和二十七年七月一日付発行)で初めて著書に収録されている。

津村信夫と『郷愁』

 津村信夫(1909~1944)は、兵庫県神戸市生まれの詩人。太宰とは、同年齢です。
 津村は、神戸一中を卒業後、慶応大学経済学部予科に入学しますが、肋膜炎を患って休学。その間に文学に親しむとともに、詩作への取り組みも本格的なものとなり、白鳥省吾が主催する「地上楽園」に詩を発表したり、「アララギ」に短歌を発表したりするようになりました。1934年(昭和9年)には、第二次「四季」の創刊に参画。以後、毎号に詩を発表し、編者の1人である丸山薫と親交を結びました。
 太宰と津村の出会いも、同じく1934年(昭和9年)。太宰や檀一雄らの同人誌「(ばん)」第二輯に詩「肘をついて」「小歌」を発表。同年、太宰から、同人誌「青い花」に誘われ、津村は、同年10月6日に銀座「山の小舎」で開かれた「青い花」同人の初顔合わせ会に出席しました。同年11月に刊行された「青い花」創刊号には、詩「千曲川」「往生寺」「長野」「林檎園」を発表。津村の「千曲川」を気に入った太宰は、この年の暮れに、山岸外史の案内で津村の家を訪れています。
 津村は、1935年(昭和10年)に、慶応大学経済学部を卒業すると、東京海上火災保険株式会社に入社。同年11月に第一詩集『愛する神々の歌』(四季社)を刊行。以後も、1940年(昭和15年)10月に小説集(散文集)『戸隠の絵本』(ぐろりあ・そさえて)、1942年(昭和17年)11月に第二詩集『父のゐる庭』(臼井書房)を刊行。これらの著書を、津村は太宰に献本しています。
 また、太宰と津村の書簡によると、太宰は津村だけでなく、津村の兄・津村秀夫からも借金をしていたようです。ちなみに、津村信夫は、『朝日新聞』学芸記者、『アサヒカメラ』編集長を務めながら、映画評論家としても活躍し、多くの著作を残しています。

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津村信夫 妻・昌子さんと善光寺の階段下にて。

  津村は、1943年(昭和18年)、アディスン氏病と診断され、同年12月には東京築地の聖路加病院に入院。翌1944年(昭和19年)2月に第三詩集『或る遍歴から』(湯川弘文館)を刊行しますが、同年6月27日に永眠。享年36歳でした。

 今日は、太宰が津村の追悼文として記したエッセイ『郷愁』を紹介します。

『郷愁』

 私は野暮な田舎者なので、詩人のベレエ帽や、ビロオドのズボンなど見ると、どうにも落ちつかず、またその作品というものを拝見しても、散文をただやたらに行をかえて書いて読みにくくして、意味ありげに見せかけているとしか思われず、もとから詩人と自称する人たちを、いけ好かなく思っていた。黒眼鏡をかけたスパイは、スパイとして使いものにならないのと同様に、所謂「詩人らしい」虚栄のヒステリズムは、文学の不潔な(しらみ)だとさえ思っていた。「詩人らしい」という言葉にさえぞっとした。けれども、津村信夫の仲間の詩人たちは、そんな気障なものではなかった。たいてい普通の風貌をしていた。田舎者の私には、それが何よりも頼もしく思われた。
 わけても津村信夫は、私と同じくらいの年配でもあり、その他にも理由はあったが、とにかく私には非常な近親性を感じさせた。津村信夫と知合ってから、十年にもなるが、いつ逢っても笑っていた。けれども私は津村を陽気な人だとは思わなかった。ハムレットはいつも笑っている。そうしてドンキホーテは、自分を「憂い顔の騎士」と呼んでくれと従者に頼む。津村の家庭は、俗にいう「いい家」のようである。けれども、いい家にはまた、いい家のいやな憂鬱があるものであろう。殊に「いい家」に生れて詩を書く事には、妙な難儀があるものではなかろうか。私は津村の笑顔を見ると、いつもそれこそ憂鬱の水底から湧いた寂光みたいなものを感じた。可哀想だと思った。よくこらえていると感心した。私ならば、やけくそを起してしまうのに、津村はおとなしく笑っている。
 私は津村の生きかたを、私の手本にしようと思った事さえある。
 私が津村を思っているほど津村が私を思ってくれていたかどうか、それについては私は自惚れたくない。私は津村には、ずいぶん迷惑をかけた。あの頃は共に大学生であったが、私が本郷のおそばやなどでお酒を飲んで、お勘定のほうが心許なく思われて来ると、津村のところへ電話をかけた。おそばやの帳場の人たちに実状をさとられたくないので、「ヘルプ! ヘルプ!」とだけ云うのだ。それでも津村にはちゃんとわかるのだ。にこにこ笑いながらやって来る。
 私はそのようにして二、三度たすけられた。忘れた事がない。それは、はっきり悪い事であるから、いつかきっと、おわびしなければならぬと思っているうちに、信夫逝去の速達を津村の兄からもらった。その時にはまた、私の家では妻の出産で一家が甲府へ行っていたので、速達を見たのが数日後で、私は告別式にも、また仲間の追悼会にも出席できなかった。運が悪かった。いつか、ひとりで、お墓へおわびに行こうかと思っている。
 津村は天国へ行ったに決まっているし、私は死んでも他のところへ行くのだから、もう永遠に津村の顔を見る事が出来まい。地獄の底から、「ヘルプ! ヘルプ!」と叫んでも、もう津村も来てくれまい。
 もう、わかれてしまったのである。私は中原中也立原道造も格別好きでなかったが、津村だけは好きであった。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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