記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】8月31日

f:id:shige97:20191205224501j:image

8月31日の太宰治

  1935年(昭和10年)8月31日。
 太宰治 26歳。

 八月三十一日付で、今官一(こんかんいち)に手紙を送る。

「僕は君を愛している」

 今日は、太宰が、1935年(昭和10年)8月31日付で、親友・今官一(こんかんいち)(1909~1983)に宛てて書いた手紙を紹介します。

 今は、太宰と同い年で、青森県津軽地方生まれの同郷作家で、桜桃忌の名付け親でもあります。
 太宰は金木町で生まれ、今は弘前市で生まれ、2人の初対面は、1927年(昭和2年)。2人が18歳の時でした。今は、太宰の文才を早くから見抜いた1人で、太宰の作家デビューの折、古谷綱武らの同人誌「海豹」に魚服記を推薦するなど、一貫して太宰のよき理解者でした。太宰と今のエピソードについては、1月19日の記事で詳しく紹介しています。

 それでは、太宰が今に宛てて書いた手紙を紹介します。

f:id:shige97:20200827203157j:image
今官一 太宰の小説十二月八日で、「今さんも、ステッキを振りながらおいで下さった」という描写を彷彿させる、三鷹時代の今。

  千葉県船橋町五日市本宿一九二八より
  東京市世田谷区北澤三ノ九三五
   今官一

 拝啓
 佐藤春夫氏からぼくへ、ぼくの作品に就いて、こんせつな手紙を下され、また、こんどの芥川賞のことでも、たいへん力こぶをいれて下された由、今月二十一日、先方からまねきもあり、知遇を深謝するつもりで上京した。
 半年ぶりで東京のまちを歩いた。佐藤氏はやはり堂々としていた。さかんにぼくも放言して、ごはんなどごちそうになってかえったが、かえったら、やはり工合いがよくないのだ。
 肺のほうは、もうすっかりいいのだが、酒をやめ、たばこをやめ、一日一杯ひとりで籐椅子に寝ていては、君、ヒステリイになるのがあたりまえではないか。ねえ。
 長篇小説を出す由。時期が大切ではないかしら。ぼくも、それとなく宣伝して置くのは勿論であるけれども、そのまえに「作品」かどこかへ問題作を掲載し、それから、ときをうつさず長篇発刊と行くのがいいのぢゃないか。君が僕を策士と言っていると、佐藤佐(さとうたすく)という青年が言いふらして、ならびに僕の悪口をもこきまぜて言ってまわっている由、聞いたけれども、()し、君がそれを言ったところで、僕は君の胸中を信じている。君が僕に愛情を感じているように。
 だんだんとしとともに古い友人を大事にしたい気持ちが一杯だ。君、策士云々は気にしないように。そんなことで、お互いの芸術が傷つかない。そんな安っぽい芸術ではなかった筈だ。佐藤佐(僕とはまだよく話合ったことはないんだ)に逢ったら、君からよく叱って置くように。(紙がなくなったのであわてている。)別な紙を使うが、ゆるしたまえ。
 来月、十月号には「文藝春秋」「文藝」「文藝通信」と三つに書いた。「文藝通信」のは、「川端康成へ」という題で、「下手な嘘はお互いにつかないことにしよう」などと相当やったから、或いは返却されるかも知れない。私は、ただ川端康成の不正を正しただけなのだが、ひょっとしたら没書ものかも知れない。
 「文藝」のは、君、まえに読んだことのある原稿だが、「文藝春秋」のは、新しく書いたものだ。四十枚といって来たのに六十枚送ってやった。「ダス・ゲマイネ」(卑俗について)という題であるが、これは、ぜひ読んで呉れ。
 僕が先に出て、先にくたばる。覚悟している。
 船橋のまちは、面白くない。ぼくの自意識過剰もこのごろ凝然と冷えかたまり、そろそろ厳粛という形態はそのうち「間抜け」の形態に変じた。僕はいまそこに暫時、定着している。
 医者は僕を脳梅毒ぢゃないかと言って、僕に「ばかやろう」とどなられた。僕はたしかだ。ときたま、強いヒステリイにおそわれるだけだから、安心せよ。それもだんだん涼しくなるとともに落ちついて来た。このあいだ古谷が来たときには、僕、少しあばれて失礼した。
 格言
一、僕たちは、男と男とのあいだの愛情の告白を堂々となさなければいけない。
一、ヴイナスを追うことを暫時やめろ。僕はヴイナスだ。メヂチのヴイナス像のような豊満な肉体と端正な横顔とを持っている。けれども、私の肉体を、ちらとでものぞいた者があったら、鹿にしてやる!

 

f:id:shige97:20200827223657j:image
メディチ家のヴィーナス

 

一、ブルウタス、汝もまた!
一、クレオパトラになりたい。シーザーになるのは、いやだ。
 もっと面白い手紙を書くつもりだったが、頭工合いあしく、失礼する。怒らないで呉れ。この、ニセ気ちがいの手紙に返事を呉れないように。このあいだ、山岸外史が僕の手紙を批評したりなんかして、二人ともひどい目に逢った。僕をそっとして置いて呉れ。そっと人知れず愛撫して呉れたら、もっと、ありがとう。
 このごろ、よく泣く。
 僕はいま、文章を書いているのではない。しゃべっているのだ。口角に白い泡を浮べ、ぺちゃぺちゃ、ひとりでしゃべり通しだ。
 千言のうちに、君、一つの写真を捜しあてて呉れたら、死ぬほどうれしい。僕は君を愛している。君も、僕に負けずに僕を愛して呉れ。
 必要なものは、叡智でもなかった。思索でもなかった。学究でもなかった。ポオズでもなかった。愛情だ。蒼空よりも深い愛情だ。
 これで失礼する。返事は必ず必ず要りません。僕をそっとして置いて呉れ!
          治 拝
  今 官 一 様
 大事なことを忘れた。「日本浪漫派」五月号と七八号、手許にあるのだけ送りました。あとは発行所のほうに言って置きます。僕はまだ同人会にいちども出たことはなし、同人、よく知らん。

 

 ちなみに、「文藝」十月号に書いたという小説は、処女短篇集晩年にも収録されている陰火ですが、この作品はその後、「文藝」から取り返し、翌1936年(昭和11年)、「文藝雑誌」四月号に掲載されました。

f:id:shige97:20200827203207j:image
■太宰と今 1947年(昭和22年)、撮影:伊馬春部

 【了】

********************
【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

【今日は何の日?
 "太宰カレンダー"はこちら!】

太宰治、全155作品はこちら!】