記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】9月2日

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9月2日の太宰治

  1947年(昭和22年)9月2日。
 太宰治 38歳。

 九月に書かれた、山崎富栄の日記。

富栄、太宰に会えぬ日々

 今日は、太宰の愛人・山崎富栄が、1947年(昭和22年)9月に書いた、3日分の日記を紹介します。

 同年8月下旬、太宰は体調が悪化し、自宅に引き籠っていました。8月28日付の富栄の日記には、太宰に「九月十二日までのお別れ」と言われたと書かれています。この頃の様子については、8月30日の記事で、富栄の日記を引用して紹介しました。

 まずは、9月1日の日記です。

九月一日

 剛ちゃんに逢う。今朝太宰さんのところへいって、いま帰るところだとか。随分血色もいいし、御元気でしたよ。もう一週間もすれば伺うんじゃないですか、とのお答。とてもうれしかった。私は確かに胸のあたりが少し悪くなってきている。決行するまでは元気でいたい。
「さえら」「ダンボウ」に寄る。
「奥名さんの御主人亡くなられたんですって?」
 太宰さんが御話なさった由。苦笑する。死にたいって言ってましたよ、とも。青酸カリは三分位で死んでしまうらしい。

 8月30日の記事で紹介した日記でも、「独りで死ぬ」「先に逝きます」などと、死ぬことをほのめかすような記述が何度も見られました。
 8月24日付の日記では、「誰か、いい人見つけて、幸せにおなり」と富栄に話しかける場面も描かれていたため、太宰は「剛ちゃん」に富栄の夫・奥名修一が戦死したことを伝えたのでしょうか。
 奥名は、三井物産の社員。富栄と結婚した12日後の1944年(昭和19年)12月21日に羽田を出発し三井物産マニラ支店に着任。間もなく現地召集となり、1945年(昭和20年)1月17日、バギオ南方20キロの地点で戦死しました。富栄に戦死の公報が届いたのは、その2年半後、1947年(昭和22年)7月7日のことでした。
 「青酸カリは三分位で死んでしまうらしい」とありますが、青酸カリは、戦争末期、米軍の本土上陸に備え、自決用として配布されていたそうです。この話を聞いた富栄は、何を想像していたのでしょうか。

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■山崎富栄 1937年(昭和12年)、富栄が18歳のとき、美容学校の日本髪モデルとして撮影された。

 最後に、9月2日と9月3日の日記を続けて紹介します。

九月二日

 お約束をした時間が間近くなって来るということは、本当に楽しみなものね。お目にかかれるような気がして。階下の時計が十時を打つ。太宰さん、お休みなさい。間をおいて、お隣りの時計が十時を打った。
 太宰さん、おやすみなさい。幾度でも十時が来るなんて、うれしいなあ。

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■山崎富栄 1941年(昭和16年)、映画撮影所にて専属美容師として働く富栄。

九月三日

 朝寝のまま、喜びを迎える。

 9月に書かれた日記は、今日紹介した9月1日から9月3日までの3日分で終わっています。富栄は約束通り、元気になった太宰と9月12日に会うことができたのでしょうか。

 【了】

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【参考文献】
・山崎富栄 著・長篠康一郎 編纂『愛は死と共に 太宰治との愛の遺稿集』(虎見書房、1968年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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