記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】9月4日

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9月4日の太宰治

  1930年(昭和5年)9月4日。
 太宰治 21歳。

 九月の夏休み明けから、津島修治は、ほとんど学校に出なくなったという。

”一人の若い左翼運動者”津島修治

 1930年(昭和5年)、東京帝国大学仏文科1年生の太宰(津島修治は、太宰の本名)は、9月の夏休み明けから、ほとんど学校に通わなくなったそうです。太宰が慕い、良き理解者でもあった三兄・津島圭治も、同年6月21日に早世したばかりでした。

 圭治と同級生の友人で、後に4年間の同居生活を送り、親交を深める飛島定城(とびしまていじょう)は、同年9月から11月にかけての2か月間は、「純粋な政治家」として、社会主義運動に「没入した期間だった」のだろうと回想しています。
 太宰は、「妻のある大学生」として、グループの中で有名で、東大の反帝国主義学生連盟のグループと、郷里・青森県出身の在京学生を左翼化する仕事をしていたそうです。
 飛島は、「後年彼が文学に全生命を打ち込んだ以外、彼の生涯を顧みて最も多くの熱情を注いだのはこの左翼運動に没入した期間だったろう」。「健康なロマンチストであると共に熱烈なマルキストで、よくその方面の本を読んでいたし、東大の反帝国主義学生連盟の活動を真剣にやっていた」、「相棒に平岡敏男氏がいた。平岡氏は反帝国主義同盟の東大キャップ。そのことを言うと嫌がったが間違いない」といいます。

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飛島定城(とびしまていじょう)と妻・多摩 新婚の頃。飛島は、東京帝国大学を卒業した後、東京日日新聞(現在の毎日新聞社)へ入社して、社会部の記者に。同じ五所川原出身の佐々木多摩と結婚しました。1931年(昭和6年)撮影。

 青森中学校時代の先輩・渡辺惣助も、「彼は学内の反帝同盟の一員だったこと」もあり、「学内の反戦同盟か無産者救援会などの仕事を手伝っていたらしい」と回想しています。

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東京帝国大学仏文科1年生のとき 左より津軽の「N君」こと中村貞次郎、太宰、葛西信造。1930年(昭和5年)撮影。

 日本反帝同盟は、「反帝国主義民族独立支持同盟」の日本支部として、1929年(昭和4年)11月7日に組織を確立しました。
 また、「無産者救援会」は、旧称「解放運動犠牲者救援会」で、1930年(昭和5年)8月上旬「日本赤色救援会」(略称:モープル)と改称した組織のことだと思われます。

 飛島は、「当時の太宰は非常に情熱的で、”一人の若い左翼運動者”という印象を受けた、そしてそれは彼の物の考え方や行動のうちに、一見あのおとなしさの中にどうしてこういうような不敵な考えや行動が出て来るかと思わせるようなものであった」と述べています。

 また、太宰と同い年の友人の平岡敏男も、「私は東大二年のとき、そのころの風潮にまきこまれて反帝同盟東大班のキャップをやらされた。本郷小石川地区の打ち合わせがあった。東大と東洋大学東京美術学校がその地区の学校である。そこで、ひょっこりと顔を合わせたのが美校のキャップ葛西であった」と回想しています。
 「美校のキャップ葛西」とは、青森中学校の同級生・葛西信造のことで、東京美術学校(現在の、東京芸術大学)漆工科に進学していました。

 飛島は、「彼の友人彼の周囲には一見マルキスト風の学生が多かった」と、当時の太宰周辺の様子について回想しています。

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■太宰と平岡敏男 弘前高等学校3年のとき。弘前の喫茶店「みみづく」の前で。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治研究 臨時増刊』(審美社、1963年)
・『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』(新潮社、1983年)
・山内祥史 編『太宰治に出会った日』(ゆまに書房、1998年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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