9月13日の太宰治。
1938年(昭和13年)9月13日。
太宰治 29歳。
井伏鱒二の勧めにより鎌滝方を引き払い、質屋から「夏の和服一揃を出して着かざり」、「淡茶色の鞄」一つ提げて、「思いをあらたにする覚悟」で、井伏鱒二の滞在していた山梨県南都留郡河口村御坂峠の天下茶屋に行った。
太宰、御坂峠の天下茶屋へ
1938年(昭和13年)9月13日。
太宰は、師匠・井伏鱒二の勧めで、天沼一丁目の天沼一丁目の鎌滝方を引き払い、質屋から夏の和服一揃いを出して着飾り、淡い茶色の鞄を1つ提げて、「思いをあらたにする覚悟」で、井伏が約1ヶ月半前から滞在していた、山梨県南都留郡河口村御坂峠の天下茶屋に行きました。
■御坂峠の天下茶屋
太宰は、4度の自殺未遂、パビナール中毒、最初の妻・小山初代との別れなど、荒んだ20代を過ごしていたため、太宰をいつまでも独り身にしておくのは危険である、と考えた井伏たちは、太宰の結婚相手探しをはじめ、そこで候補に浮上してきたのが、甲府の女性でした。
御坂トンネルのすぐ側、国道に面して天下茶屋が建てられたのは、1934年(昭和9年)の秋。木造2階建て、八畳が三間ある小さな茶屋で、峠を行き交う旅人に食事などをふるまったのが始まりでした。正面に臨む絶景から、「富士見茶屋」「天下一茶屋」などと呼ばれていましたが、徳富蘇峰が新聞に「天下茶屋」と紹介したことがきっかけで、その名称が定着しました。
天下茶屋の1階には、テーブルや腰掛けを配置し、土産物の木彫り細工や絵ハガキやキャラメル、サイダーなどを並べ、2階は旅人宿の客室になっていて、宿泊できるようになっているという、掛茶屋兼旅人宿でした。
■天下茶屋と御坂トンネル
太宰は、同年11月中旬までの約2ヶ月間、この天下茶屋の2階の端の部屋に滞在し、荒い棒縞の宿のどてらに角帯を締めて机に向かい、主に中篇『火の鳥』を書き進めました。
御坂峠は、古くから甲府盆地と富士五湖地方を結ぶ交通の要衝で、いわゆる鎌倉往還として、甲斐国最古の官道でもありました。1934年(昭和9年)からは、甲府市から峠上まで八里(約31.2km)間、御坂国道バス株式会社の木炭バスが毎日7往復していました。
太宰滞在時の天下茶屋には、
■天下茶屋の人たち
太宰が天下茶屋で書いた『火の鳥』の主人公「高野幸代」と「須々木乙彦」は、それぞれ「中村たかの」と「外川元彦」の名前から発想したのではないかと思われます。
天下茶屋での太宰の生活は、夜遅くまで仕事をして、朝は遅く起きるというもので、昼間は来客の相手をしたり、郵便局へ行くなどの雑用をしていました。太宰にとって富士山が見えるこの場所は、津軽富士と呼ばれた故郷・津軽の岩木山を見ているようで、安心できたのではないでしょうか。
食事は2階にお膳を運んで太宰1人でするのではなく、客のいない合間に天下茶屋の人たちと一緒にとっていました。しかし、朝は8時前から、夕方は7時過ぎまで天下茶屋の前にバスが停まり、約10分ほどの休憩があったため、その度に天下茶屋は大勢の客で賑わいました。天下茶屋の人々はとても忙しい毎日を送っていたため、食事の時間は不定期になりがちだったそうです。
八重子は、井伏から「太宰は身体が弱い人だから、できるだけ栄養のあるものを食べさせて欲しい」と言われていましたが、当時は満足に食べ物もなく、郷土料理「ほうとう」と麦ご飯の毎日でした。しかし、太宰も「ほうとう」が好きになり、いつしか催促するようになっていたといいます。太宰は「ほうとう」は、自分のこと(放蕩息子)を言っているのだと照れていたそうです。
酒は1人でいる時はほとんど飲まず、文学仲間などが来た時、一緒に飲む程度でした。
■外川八重子と子供たち
太宰が天下茶屋に滞在して何日か経ったある日、1人の女性が、「津島修治さんいますか」と訪ねて来ました。八重子が「そんな方はいません」と言うと、2階から太宰が下りて来て、「津島修治は、私です」といったため、八重子は初めて太宰の本名を知ったといいます。
太宰は女性と2階に上がり話をしていましたが、女性と2人では恥ずかしかったのか、5歳になる八重子の息子・元彦を連れて上がったそうです。元彦は、太宰のことを「オカク(お客)」と言ってなついていました。5歳の子供が大人の間で静かにしていることはなく、出された美味しいものを次々に食べてしまうので、女性に行儀が悪いと手を叩かれました。そのことを、元彦は泣いて八重子に訴えました。その女性とは、のちに太宰の妻になる石原美知子だったそうです。
■石原美知子
太宰は、天下茶屋での生活を中心に『富嶽百景』に書いています。その中で、中村たかのは、天下茶屋の人たちと同居しているように書かれていますが、実際は、毎日天下茶屋にいた訳ではなく、アルバイトのように、時々茶屋の手伝いをしていただけだったそうです。
■中村たかの
当初、太宰の滞在日数は決められていませんでしたが、1938年(昭和13年)11月に入ると、峠はだいぶ冷え込んできました。平地と違い、天下茶屋は大変寒かったそうで、その寒さが原因で、夜中にビールやサイダーの瓶が割れてしまうこともあったそうです。
天下茶屋の暖房は火鉢だけで、太宰は天下茶屋への滞在に限界を感じていました。また、美知子との結婚の話が進んでいる中で、天下茶屋に留まる理由もありませんでした。
■外川八重子と息子の元彦
太宰になついていた元彦は、太宰の布団に潜り込んだり、トンネルの向こうまで散歩に行ったりして可愛がってもらっていたため、太宰が去る時は、「オカク行くな」といって、泣いてすがったといいます。太宰も「君、そんなことをいうなよ。僕だって泣けるじゃないか」と別れを惜しんだそうです。
【了】
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【参考文献】
・長篠康一郎『太宰治文学アルバム』(広論社、1981年)
・『太宰治研究 8』(和泉書院、2000年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「御坂峠 天下茶屋」
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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