記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を、自由に旅する。太宰治が、ソウルフレンド。

【日めくり太宰治】9月15日

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9月15日の太宰治

  1942年(昭和17年)9月15日。
 太宰治 33歳。

 堤重久(つつみしげひさ)は、東京慈恵会医科大学出身の軍医の好意で、除隊となった。

堤重久の除隊

 堤重久(つつみしげひさ)は、日本の文芸評論家、京都産業大学名誉教授。太宰の一番弟子です。
 堤は、新宿の開業医の息子として1917年(大正6年)に生まれました。旧制東京府立高等学校(のちの東京都立大学)3年在学時、堤が18歳の時、処女短篇集晩年を読んで衝撃を受け、太宰に心酔します。
 1940年(昭和15年)12月、堤は太宰の弟子になります。1942年(昭和17年)に東京帝国大学文学部独文科を卒業したあとは、東大図書館に勤務しつつ、作家を志して長篇小説を執筆。戦時中は外交官の伯父の勧めで、外務省に勤務し、外交官試験の準備をしました。太宰の死後は京都市に住み、京都産業大学で教鞭をとりました。

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奥多摩御岳で、堤の出征壮行会 太宰と堤重久。1942年(昭和17年)4月9日、撮影:桂英澄。

 1942年(昭和17年)4月7日。太宰に召集の報告をした堤は、その2日後、太宰や友人達と一緒に奥多摩御岳へ壮行会の旅行をしています。このときの様子は、4月9日の記事で紹介しました。

 堤は、同年4月15日、上馬(かみうま)の東部第十七部隊に入営しましたが、風邪をこじらせることが多く、ほとんど演習には参加しませんでした。精神科出身の軍医は、誤診を怖れて、すぐ練兵休にしてくれたそうです。
 毎日、洗濯物の干場の番をしながら、聖書を読んでいると、堤と同じく練兵休を重ねて、干物の番をしながら、原書でプラトンを読み耽っている、東京帝国大学心理学科出身の曳沼と親しくなりました。2人は、お互いに兵隊の身を嘆きながら、カントの物自体について論争したりしたそうです。
 そして、入営からちょうど5ヶ月後の同年9月15日。堤は、入隊を免れました。この時の様子を、堤の太宰治との七年間』から引用して紹介します。

 九月一日に、私は軍医に呼ばれた。精神科の軍医ではなく、習志野にきてからの軍医である。私は、これまでも何度か呼ばれて、何事だろうと出かけてゆくと、マルクシズムをどう思うかとか、戦争は罪悪かとか、アメリカの個人主義とは、どういうものかなどと質問され、そのたびに私は、いい気になって弁じ立ててきたので、そのときも、今日はひとつやり込めてやろうか、などと軽く考えて出かけていったところ、まるでちがっていた。三十歳前後の、慈恵大学出の医者で、ドアをノックして入ると、その顔が暗く引締っていて、いきなり私にいった。
「貴様は、家に帰りたいか」
 事があまりに重大な質問なので、とっさに返事が出来ず、私は、直立不動のまま黙っていた。
「ここには、貴様とおれ以外には、誰もいない」
 軍医は、棚の上の薬瓶をかすかに鳴らして、板敷の粗末な個室のなかを歩き回っていた。
「正直にいうがいい。帰りたいか」
 緊迫したその声に押されて、私はかえってうつむいてしまった。不覚にも、涙が滲んできたのである。その様子を、軍医は歩きながら、横眼で見たのであろうか。不意に長靴がとまって、声が落ちてきた。
「よし、帰らせる。二週間以内に、帰らせる」
 霹靂(へきれき)に打たれたようなショックを受けて、私はいよいよ言葉に窮し、顔をこわばらせて立ちつくしていた。軍医は、ふたたび歩きだしながら、一種の感慨をこめて、
「巡回すると、いつも洗濯場で、貴様の外にもう一人、勉強しとる兵がいた。プラトンをよんでいた。知っとるか?」
「ハイ、知っています。曳沼であります」
「あの男も、帰らせる。外の除隊者は、重病人だけだが、貴様たちは、ちがう。軍隊にいるより、地方で勉強した方が、国家の役に立つと考えたからだ。ちがうか?」といって、私の顔を見て、やさしく微笑した。
 軍医は、その約束を履行した。九月十五日の午前十時半、私と曳沼君は、背広に着替え、それぞれ風呂敷包みぶらさげて、営門を出た。二人とも、狐につままれたような感じで、顔を見合せてわらった。それから歩きだして、見あげた九月の蒼空は、思っていたほど明るいものではなかった。

 除隊となった堤は、早速、三鷹の太宰宅を訪問しました。

 奇蹟的にも除隊となって、先ず第一に三鷹のお宅を訪ねたとき、太宰さんは、よろこびながらも、私の説明に呆れた顔をして、
「軍隊を脱走したとか、病気や負傷で除隊になったとか、そこまでは知っているがね、軍隊を首になるなんて、聞いたこともないね」
「いや、首になったんじゃあないですよ。軍医の好意で、その方が役に立つと思って――」
「いや、やっぱり、首になったんだよ」
 例のやり方で、首になったことにされてしまって、
「どうにも、こうにも、役に立たないんで、国費のムダと判断したんだね。大体は想像してたがね、しかしそこまで、お前が役立たずとは、さすがのおれも知らんかったよ。それはともかく、おめでとう」
 勝手なことをいわれて、私は苦笑するほかなかった。

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■太宰と堤 奥多摩御嶽、堤の出征壮行会にて。1942年(昭和17年)4月9日、撮影:桂英澄。

 【了】

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【参考文献】
・堤重久『太宰治との七年間』(筑摩書房、1969年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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