記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】9月16日

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9月16日の太宰治

  1944年(昭和19年)9月16日。
 太宰治 35歳。

 菊田義孝(きくたよしたか)とともに甲府に行き、山梨県巨摩(こま)郡増穂村青柳に熊王徳平を訪ねたが行商に出ていて不在であった。

太宰と菊田義孝(きくたよしたか)甲府

 菊田義孝(きくたよしたか)は、宮城県仙台市生まれの小説家、詩人です。1941年(昭和16年)8月3日、高山書院に勤めていた菊田は、はじめて太宰の住む三鷹の家を訪れ、以後、師事しました。

 1944年(昭和19年)9月16日、太宰は菊田とともに、甲府へ行きました。この時の様子を、菊田の太宰治の弱さの気品』から引用して紹介します。

 あれは昭和二十年の早春のことであったか、それとも十九年の初秋のことであったか、そこらの記憶がはっきりしない。とにかくもう戦争も終りに近い頃だったことは、事実である。あの人は、その当時、三鷹の家にひとりだけ起き臥しして気ままなというよりはむしろちょっとばかりいたいたしいような自炊生活をしていた。奥さんと長女の園子さんは、甲府の奥さんの実家に、あの頃の言葉でいえば、疎開しておられた。奥さんはたぶん長男の、(十五歳で肺炎のために亡くなられた)正樹君を産むために実家に帰っておられたときではなかったかと思う。 とすれば、それから推して、わたしがあの人と、甲府に遊んだその時期も明らかになるわけなんだが……。あの人の独居生活が、いささかいたいたしい感じだったと書いたが、それはあるときあの人が煮物のナベを七輪からおろそうとしてひっくり返したとかいうことで、向こう脛のあたりに火傷をし、それをなんだかあまり清潔ともいえない色をした端きれで無雑作にぐるぐると巻いていたことなどもあったので、そんなところからきた感じであった。しかし、概してあのころのあの人の雰囲気は明るかった。あの人の言動は、ほとんど粗野にちかいほど、のびのびしていた。あの人の「津軽」がその当時におけるあの人の融通無礙(ゆうづうむげ)なありかたを、最もよく表現している。
 あるときわたしが、あの人から書いてもらった書を経師屋に頼んで掛け軸にして、それと、配給の酒やショウチュウを何回分か貯めておいたのを、持って訪ねて行ったら、ちょうど学生風の先客があった。わたしが上ってあいさつをするや否や、間髪を入れず、「きょうはばかに、かれんな声を出すじゃないか」とあの人が言った。そんな軸物などを持って、気がはずんでいたので、わたしは思わず玄関で、ごめんくださいという声にも、はずみがついていたらしいのである。
 「いや、きょうは、ちょっと珍しいものが手にはいったので、お目にかけたいと思いまして」
と何食わぬ顔で風呂敷から軸物をとり出すと、
 「ふうん、なんだい」あの人は無雑作に手にとって、クルクルとひらきかけた。と、
 「あ、こりゃいけねえ」
 そう言って、またクルクルともとに戻してしまった。わたしが持っていった酒にも、一こうに手をつけようとはしない。そのうちにようやく学生が帰っていったら、あの人はさっそくそのビンを取り上げて、
 「さて、これから二人でのもう」と言ったのである。どうせ少しばかりの酒だ。それを菊田にとっては初対面の学生にまでのませたのでは、いよいよもってあっけないものになってしまう。それではせっかく持参した菊田の好意が無になってしまう。そういう気を使ってくれたことが、すぐわかった。ひとが持ってきてくれた酒で自分の客をもてなす、そういうことをいさぎよしとしない、潔癖というか律儀というか、一種ガンコに近いほどの折目正しさを、持っている人だったのである。それからあの人は押入の中から、恐らくあるくらいの軸物をみな取り出して、壁に並べてぶらさげ、自分の書もそれと並べて、眺め、わたしと二人勝手なことを言い合いながら、のんびりと愉快にのんだのであった。わたしが中原中也の「汚れっちまった悲しみに」の詩に、勝手なフシをつけたのを、胴間声張り上げてうたったら、あの人はじっと聞いていて、終ると、「きみ、それは行進曲だよ」と言って、笑った。中原中也の絶望の暗さ、深さが、それでは全然わからない、という意味であったと思う。

 

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■菊田義孝 神田すずらん通りで。

 

 二人の間で、甲府行の相談がまとまったのは、たしかその日のことであった。甲府郊外の青柳に、熊王徳平(くまおうとくへい)という人があり、その人からあの人に宛てて、遊びにいらっしゃい、酒がのめます、というハガキが届いていたのである。なにしろ酒が、極度に珍しかった時代のことだから、そういう吉報は何よりの誘いだったのである。よし、のみに行ってみるか、ついては菊田もこのところ大分物欲しそうにしているようだからついでに彼も連れて行って甲府の地酒をたっぷりのませてやるとしようか、とでも思ったのかもしれない。どうだ、行ってみないか、と言われて、わたしはもちろん二つ返事、さっそく話はまとまった訳だ。
 ところで熊王平氏(言うまでもなくその「甲府商人」と題する作が「狐と狸」というれいの映画になった、あの熊王平氏である)とあの人とは、たしかまだ無対面の間柄だったようである。熊王氏が一種の「ファン・レター」をあの人に宛てて出し、それがあの人の心を動かした、といった次第ではなかったかと、失礼ながらわたしは推測しているのである。なにしろ国内で、作家らしい仕事をしている作家があの人以外にほとんど一人もいなくなってしまったような時代であったから、熊王氏もその寂しさに堪えかねて、あの人に呼びかけるこころを起こされたのではなかったろうか。甲府に向かう汽車の中で、あの人がポケットから一枚のハガキをとり出した。熊王氏からのそのハガキである。あの人はそれを、いま一度読み返していた。あの人と並んで通路に立っていたわたしの目にも、その文面はほとんど自然に映ってきた。その中に、日本一の桃太郎、という言葉があった。熊王氏が、あの人に向かってデジケートした、無邪気な、そして、真実味のある賞賛の言葉であった。首を長くして日本一のお出を待っています。とたしかにそんな文句もあった。あの人が熊王氏の招きに応ずる気を起こしたのは、もちろん酒がのみたいばかりではない。その文面に溢れていた熊王氏の無邪気な好意に満ちた微笑に、こころを動かされたからであったと思う。
 「日本一の桃太郎か」とわたしが、わざと小声で、しかしあの人の耳にははっきりと聞こえるようにつぶやいてみせたら、あの人はわたしの顔を見て、いくらかはてれくさそうに、しかしいかにも心からうれしそうに、ふふ、と破顔したのであった。
 車室の隅の方に、従軍看護婦といったか、その黒い服を着た、若い看護婦が乗っていた。わたしはそれほど気にとめていなかったが、あの人はそのこぢんまりした、色白で、ちょっと愛くるしい感じの看護婦さんに、大分気を惹かれていたらしい。与瀬の駅でその女がおりていったら、いまおりていった看護婦ネ、あれはなかなかめんこい女だったな。あれは傷病兵たちを、きっと相当泣かせているぞ、と言った。そんなことを話し合っているうちに、いつか甲府についていた。

 

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熊王徳平(くまおうとくへい)(1906~1991) 山梨県巨摩(こま)郡増穂村(現在の富士川町)出身の作家(農民文学者)、歌人

 

 甲府から電車に乗って青柳にいった。さびれたいなか町というだけで、べつにこれという特徴もなさそうな青柳の町並みを少し歩くうちに、熊王さんの家はすぐ見つかった。小さな理髪店であった。理髪店といえば、どこか都会的で、明るく清潔な店のありさまを連想しそうだが、熊王さんの店は、それとはいささか趣きを異にしていた。どちらかといえば昔風に、床屋、と呼んだ方が似合うであろう。埃のためにひどく曇った、木の枠もすっかり古びて黒く汚れたガラス戸は、半分、薄黄色く陽焼けした白布のカーテンで(おお)われていた。そろそろと戸をあけて中をのぞき込んだあの人のそばから、わたしも中をのぞいてみた。正直な話、わたしは少しばかりぎょっとした。というのは、店の中には、ひとりの人の姿もなかったが、そのわずか一坪ばかり(でもまさかないだろうが)ほとんどそう思われるほど狭苦しい場所に、なにやらひどく荒廃した気配が漂っていたからである。ただ一つだけ投げ棄てられたように置かれてある椅子も、いつ人に使われたことがあるのかわからないほど、白っぽい埃にまみれていた。正面の壁を塞いだ鏡の面にも、もう大分しばらくの間、人の顔など映ったこともなさそうであった。床屋らしい道具といえば椅子と鏡くらいのもので、ほかにはこれといってなさそうなのに、それでいて何となく足の踏み場もないほど取り散らかされたかんじがするのが、妙であった。ごめんなさい、というあの人の声を聞いて、奥から中年の女の人が、手を拭き拭き出てきた。いかにもいなか風の気の弱いおかみさんらしく、質朴で従順な気分が丸っこい肩のあたりにも、溢れていた。
 「東京の太宰ですけど……」あの人がそんなふうに言うと、ご婦人はいかにも恐縮そうな笑いを浮べて、
 「うちの人はネ、あいにくニ、三日前からネ、旅に出ましてネ、いつ帰ってくるかわからないです」というようなことを、口の中で聞き取りにくく言った。
 「あ、そう」あの人は気軽に返事して、「それじゃあ、お帰りになったらよろしく。」そう言ってすばやく頭をさげ、すたすたと歩き始めた。あの人は熊王さんに何の連絡もしてなかったらしく、熊王さんは熊王さんであの人がこんなに早くやってくるとは思わなかったのであろう。とかく人生には行き違いが多いものだ。あの人は歩きながらもう一度だけちょっと振り向いて見てから、
 「あの店のたたずまいでみると、作家としての生活態度はなかなか一流のようだネ」と言った。どこやら冗談くさい匂いもしたが、まんざらの冗談ではなかったかもしれない。
 青柳のまちで日が暮れた。何々亭とバカに大きな看板が門柱に掲げてある家を見つけて中にはいった。はいってみると、中には普通の住宅となんの変わりもなく、ただ奥の方の一間だけが時に応じて客用にあてられるらしいのである。室の隅の小さな花ビンになんであったかちょっと目の醒めるような花が飾ってあるきりで、ほかにはなんの装飾もない。室の真中に殺風景なテーブルが一つだけ据えてあった。上る前にこの家の主人らしい和服を着流した男に聞いて、日本酒がないことはわかっていた。シュセキ酸を抜いたあとのブドウでつくったブドウ酒があるきりという。「ブドウ酒。いくらでも、出来るだけ持ってきていいですよ。それから肉は、ビフテキにしてネ」あの人はこの家の娘らしい十六、七の少女が出てきたのに向かってそう言った。珍しくも牛肉があるというのである。もちろん闇値にきまっているから、目の飛び出るほど高いことであろうが、もともと自分で金を払うつもりはさらになく、だいいち金など往復の汽車賃以外にほとんど持ってこなかったわたしは、高かろうとなんだろうとそんなことにはお構いなく、よし、今夜は徹底的にのむぞ、ともうあの人に大びらに負ぶさったつもりになって意地汚く張切っていた。
 田中英光の「わが西遊記」からは、なんだか赤ん坊の瞳が感じられますネ、赤ん坊の瞳にうつった世界というかんじ、……とわたしが言ったら、あの人はにこにこ笑って、そんなことを言ったら英光がよろこぶぞ、あいつあまりいい気になるといけないから、ぼくはそんなにほめないことにしているんだがネ、と言った。それ以外そこで話し合ったことはいまは全然憶えていない。よく語りよくのんだことは、たしかなんだが……。

 

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■太宰の弟子・田中英光

 

 その夜、わたしは、青柳駅の切符売場の前でしたたかにゲロを吐いた。甲府に帰る電車の中で、わたしはあの人にすすめられて座席の上で横になった。電車はがらあきという訳でなく、相当に混んでいたのである。横になったままそっと目をあけて見ると、あの人はわたしの真向いの座席に上体だけ横たえ、窮屈な恰好で、心配そうにわたしの方を見ていた、わたしはあの人がわたしのために、わざと自分も横になって見せてくれているような気がした。

  太宰はその後、単身で石原家に行き、9月21日、妻・津島美知子とともに三鷹へ戻りました。前月の8月10日、長男・津島正樹が生まれたばかりの頃でした。

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■太宰と妻・津島美知子

 【了】

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【参考文献】
・菊田義孝『太宰治の弱さの気品』(旺国社、1976年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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