記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】9月20日

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9月20日の太宰治

  1939年(昭和14年)9月20日。
 太宰治 30歳。

 午後五時半から、日比谷公園松本楼において、「月刊東奥」主催の「『ふるさとの秋』を語る青森県出身在京芸術家座談会」が行われ、出席。

太宰「うるせえ、黙ってろ」

 1939年(昭和14年)9月20日、午後5時半。日比谷松本楼の2階で、青森の新聞社である東奥日報社が刊行していた「月刊東奥」(1939年(昭和14年)刊行~1950年(昭和25年)廃刊)主催の「『ふるさとの秋』を語る青森県出身在京芸術家座談会」が開催され、太宰も出席しました。この日の東京は、朝から大雨だったそうです。

 会場となった日比谷松本楼は、1903年(明治36年)に、日本ではじめての洋式公園として誕生した日比谷公園と、時を同じくしてオープンしました。松本楼は、当時流行していたマンサード屋根の3階建て。おしゃれな店として評判を呼び、ハイカラ好きなモボやモガのあいだでは、「松本楼でカレーを食べてコーヒーを飲む」ことが大流行しました。

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■日比谷松本楼

 夏目漱石や、智恵子抄高村光太郎をはじめとする多くの文人の憩いの場所にもなり、彼らの詩や小説の舞台にもなっています。

 太宰の妻・津島美知子によると、太宰は出席する前から、「郷里」にこだわり、「生家」にこだわり、心が波立っていた様子だったそうです。
 当夜の出席者は、以下の31名でした。

名久井十九三(彫刻)
今ヤヨ子(彫刻)
清水富久子(洋画)
橋本はな子(洋画)
板垣直子(評論)
鳴海要吉(口語歌)
中野桂樹(彫刻)
鳥谷幡山(日本画
秋田雨雀(文学)
棟方志功(洋画)
鷹山宇一(洋画)
関野準一郎(洋画)
明本京静(音楽)
江口隆哉(舞踊)
今官一(文学)
太宰治(文学)
芳賀まさを(漫画)
小林喜代吉(洋画)
今純三(洋画)
阿部合成(洋画)
篠崎正(詩)
陸奥明(音楽)
上原敏(音楽)
須藤尚義(日本画
鳴海完造(評論)
工藤敬三(彫刻)
竹森節堂(日本画
太田耳動子(俳句)
田沢八甲(洋画)
竹内健(洋画)
波岡惣一郎(音楽)

 名簿の中には、太宰と同年生まれの作家・今官一や、太宰の1歳年下で青森県立中学校の同級生・阿部合成の名前も見られます。

 この名簿の順番で自己紹介がはじまると、棟方志功(むなかたしこう)が、「御高名は承っておりました。」「お仕事はよく拝見して心にいたしております。」と、会場全体に響き渡る大声で挨拶した。

 棟方志功(むなかたしこう)(1903~1975)は、日本の板画家(ばんがか)。20世紀の美術を代表する世界的巨匠の1人です。棟方は、自らの作品を板画(ばんが)と称し、版画とは異なると主張。木版の特徴を生かした作品を一貫して作り続けました。
 棟方は、小学校を卒業し、裁判所の給仕係として働いていた頃に、ゴッホ『ひまわり』に出会って心を奪われ、「わだば日本のゴッホになる」と言い、東京に出て絵の勉強をする決心をした、というエピソードが有名です。当時、棟方は「ゴッホ」を「絵描き」という意味だと勘違いしていたという説もあります。
 棟方は、生まれた時から声が大きく、その鳴き声が隣近所に響き渡り、「鬼の子が生まれたのか?」と噂になったそうです。
 棟方の性格は明るく、誰にでも優しい人だったといいます。小さい頃から視力が弱く、最後には左目が見えなくなりました。医者から細かい字を読むことを禁止されていましたが、それでも本を読み、勉強し続けた努力の人です。
 ちなみに、太宰が青森中学2年生の頃、青森市寺町の小さな花屋に飾られていた5、6枚の洋画に感心し、そのうちの1枚を2円で買い、「この画はいまにきっと高くなります」と言って、下宿していた縁戚の豊田家の主人に進呈した、というエピソードが残っています。この時の「この画」が、棟方の作品でした。

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棟方志功

  太宰は、棟方の大声での挨拶を嫌い、野次を飛ばしていましたが、自分の番になると、「私は小説を書いている太宰治であります。北郡金木町生まれで本名は津島修治。」と、ほとんど誰にも聞き取れないような声で発言。その挨拶に対し、棟方が「今の方、もう一度、高くいってください」と言うと、太宰は振り向きざまに、「うるせえ、黙ってろ」と、大声を浴びせ返したそうです。
 太宰はこの頃、富嶽百景黄金風景女生徒などの秀作を発表するなど、好調の時期を迎えていましたが、「太宰治」の名前はまだ一部にしか知られていませんでした。「太宰治」と名乗っても、誰も自分のことを知らないかもしれない。「金木町の津島です」と名乗ると、自殺未遂など、東京で恥さらしをしている津軽の大地主の息子か、と思われてしまう。太宰の自己紹介は、この葛藤から、どんどん声が低くなり、語尾が口の中に消えてしまったのでした。

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■作品制作中の棟方志功

 自己紹介が終わり、座談会に入る前にいったん休憩になったところで、太宰は、「おい出よう」と、今官一阿部合成関野準一郎(青森中学校の後輩。根市良三小舘善四郎などと同期)に声を掛け、一緒に会場を出ました。雨の夜の日比谷公園を出た所で、円タクを待っているあいだ、「おれたちの来るところじゃないよ」「おれたちは場違いなんだ」と太宰はぶつぶつ呟いていましたが、円タクに乗り込むと、堰を切ったように棟方の悪口を喋りはじめたといいます。
 その後、三鷹で酒盃を傾け、ザンザン降りの中を人力車で帰宅して、美知子に失敗談を語ったそうです。

 【了】

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【参考文献】
長部日出雄『鬼が来た<上>棟方志功伝』(文春文庫、1984年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「森のレストラン 日比谷松本楼
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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