記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】9月21日

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9月21日の太宰治

  1945年(昭和20年)9月21日。
 太宰治 36歳。

 「河北新報(かほくしんぽう)」に小説の依頼をするために、河北新報出版部の村上辰雄が訪れた。

太宰、終戦後の希望を書く

 1945年(昭和20年)9月半ば過ぎ、宮城県仙台市に本社を置く新聞社・河北新報社(かほくしんぽうしゃ)の出版局次長・村上辰雄が、日刊新聞である「河北新報(かほくしんぽう)」に新聞小説の依頼をするために、郷里の金木に疎開していた太宰のもとを訪れました。

 太宰は、同年4月に三鷹で空襲に遭ってから、甲府を経て、7月31日に郷里の金木に疎開していました。生家に近い神社の境内に爆弾が落ちたこともあり、太宰は帰郷の翌日から、避難小屋を造る手伝いをしていました。
 終戦を告げる玉音放送があったのは、帰郷して16日目。終戦前後の様子を、太宰は、村上宛の手紙に、次のように記しています。太宰と村上は、前年1944年(昭和19年)に惜別の取材で太宰が仙台を訪れて以来、親交を深めていました。

こちらへ来た当座は、何が何やら見当ちがいばかりで甚だ弱りましたが、もう少しずつなれて来ました。何のことはない、ただ一部屋に籠城して、仕事に精出していたら、それでいいのでした。(中略)このごろは、一日の仕事がすむと、読書としゃれこみます

 太宰が村上へ、生家への疎開と、その後の暮らしぶりを知らせる手紙を書いたことが、小説パンドラの匣誕生に繋がっていきます。

 河北新報社内では、終戦後、全国の新聞に先駆けて新聞小説を再開したいという声が強まっていました。村上は、1945年(昭和20年)9月半ば過ぎ、手紙で太宰に、10月からの小説執筆を打診します。9月25日、村上は太宰宛にウナ電(至急電報)を打ち、正式に執筆依頼をしました。

 十五ヒヨリノレンサイシヨウセツゴシツピツコウ
 イサイフミ
 チカクレンラクニユク
 ムラ

 少しでも早く太宰に会い、執筆の許諾を確かめたかった村上は、連絡の手紙を出すのを止め、電報を打ったその日のうちに、夜行列車で金木を目指します。翌9月26日の昼には、太宰の生家・津島家の玄関に立っていました。津島家のすぐ傍には、敵弾の大きな穴跡があったといいます。

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■太宰の生家(現在の「斜陽館」) 2011年、著者撮影。

 太宰は、村上の突然の訪問に驚いた様子もなく、にこにこしながら出迎えたそうです。幾つかの座敷や、文庫蔵の脇を通って、太宰は村上を、離れにある自分の書斎に案内しました。書斎には、机や椅子、置時計しかなく、原稿は隣り合わせのガラス戸のあるベランダ風の部屋で書いていたといいます。籐椅子が2つあり、机の上には、様々な道具とともに、灰皿が無雑作に置いてあったそうです。

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疎開中、太宰が仕事部屋としていた部屋 2018年、著者撮影。

「電報のことだが、どうだろう」
 久し振りの再会の喜びに浸る間さえ惜しむように問いかける村上に、太宰は、
「そのことだったら、外へ出てゆっくり話そうじゃないか」
 と答えました。
買い物袋を提げて家を出た太宰は、親戚だという商家に寄ってワインを調達し、村上を町外れの芦野公園に案内しました。この商家は、太宰の姉の嫁ぎ先の「やまはら」だと思われます。太宰が村上を案内したのは、津軽富士とも呼ばれる岩木山が綺麗に見渡せる、お気に入りの場所でした。
 太宰は、袋から2つのコップを取り出すと、深紅のワインをなみなみと注ぎました。
「小説書いてくれるね」
 と、再度訪ねる村上に、太宰は、
「うん、書きたいと思っているものがあるんだ。(中略)何しろ終戦だろう。僕は、改めて希望というものを感じている。パンドラの匣から、最後に見つけ出した生きがいというか、もう長虫だの歯のある蛾だの毒蛇は見たくもないんだ」
パンドラの匣、それがいい、それにしよう」
 村上は即座に応じました。
「三百枚書き下しだよ」
 と続ける村上に、太宰は、
「いや、二百枚というところかな。丁度、今年いっぱいに終るという幕切れもいいじゃないか」
 と返答。太宰は新聞の連載小説が初めてでしたが、強い自信を示しました。
 村上は、原稿1枚10円とすること、挿絵は中川一政に依頼するつもりであること、連載が終了したら河北新報社で出版したいことなどについて、詳しく説明したあと、2人は津軽富士を眺めながら、ワインを飲んだそうです。原稿1枚というと、現在の貨幣価値に換算すると、約1,500~5,000円程度です。

 翌日、仙台に帰るために金木駅に向かう村上を見送った太宰は、「月末までに第一回を送稿する」と約束しました。

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■金木・芦野公園にて 1946年(昭和21年)撮影。

 太宰は、小山書店から刊行予定だったものの、出版許可がなかなか下りず、刊行が延びているうちに、発行間際の1944年(昭和19年)12月に印刷工場が戦禍に遭い、原稿が焼失してしまった雲雀(ひばり)の声』の内容を、戦後のことに書き改め、早速原稿に着手しました。

 太宰の初めての新聞連載小説については、1月14日の記事でも紹介しています。

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・須永誠『太宰治と仙台 ー人・街と創作の接点』(河北新報出版センター、2019年)
・HP「日本円貨幣価値計算機
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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