記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】1月27日

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1月27日の太宰治

  1931年(昭和6年)1月27日。
 太宰治 23歳。

 上京中の長兄文治に呼び出されて、会談。前年十一月九日の仮証文を破棄し、新たに本格的な証文を「覚」として書き、両者署名捺印して取り交わした。

長兄・文治と交わした「覚」

 1930年(昭和5年)11月9日、長兄・津島文治から、小山初代(おやまはつよ)との結婚を承諾する代わりに分家除籍を言いつけられます。自暴自棄となった太宰は、銀座のバー「ホリウッド」で知り合った女給・田部(たなべ)あつみと、鎌倉海岸の小動崎(こゆるぎがさき)で薬物心中を図り、結果、太宰のみが一命をとりとめます。

 その翌年、太宰は前年11月9日に長兄・文治と交わしていた「仮証文」に代わる、「覚」を新たに交わします。

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■「覚」全3枚

 第6条に、生活費送金の条件として、学業への専念や、社会主義運動への関与の禁止について記されています。

 「覚」内容の詳細について、山内祥史太宰治の年譜』から引用します。

 「小山初代ト結婚同居生活ヲ営ム限リ昭和八年四月(まで)其ノ生活費用トシテ毎月壱百弐拾円ヅゝ」支給し、「単独生活ヲ行フトキハ支給生活費ハ月額八拾円也」とする。また、「昭和八年四月限リ年額四百弐拾円ノ割ヲ以ツテ」修治の「生活予備費トシテ」文治が「保管シ(利息ヲ附セズ)」、修治の「生活上支出ノ止ムヲ得ザルモノ」と文治が「認メタルトキハ随時」修治に「支給スル」というものだった。ただし、「帝国大学」より「処罰」を受けたり、理由なく「帝国大学」を退いたり、「刑事上」のことで「検事ノ起訴」を受けたり、(みだ)りに学業を(おこた)ったり、(みだ)りに金銭を浪費したり、操行(そうこう)が乱れたり、「社会主義運動」に関係したりしないこと、などを生活費支給の条件とし、これに反したときは、「額ヲ減ジ或ハ停止及ビ廃止ヲスル」と記し、欄外に、支給生活費の支給日と支給額とを「毎月、六日五十円、二十六日七十円」と記したものであった。

 長兄・文治と新たな「覚」を交わした太宰でしたが、ちょうど同じ頃、太宰の3つ年上で弘前高等学校の先輩で、東京帝国大学文学部哲学科を卒業、東京帝国大学大学院に在籍していた田村文雄(たむらふみお)の下宿を訪れ、「済まなかった、申訳ない、心を入替えて、やります」と、社会主義運動への積極的な参加を誓っています。
 田村によると、「その誓いの通り、彼はその後かなりの意欲をもって積極的に、非合法運動の中に働いたし、彼の顔つきはきりりと引締まって来て、とても私など近寄れないという程のものを感じさせた。」といいます。

 【了】

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【参考文献】
・長篠康一郎『太宰治文学アルバムー女性篇ー』(広論者、1982年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
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